元気な三十路の音楽=ルナ・ポップス(文字起こし)


前略〕

◎シャウトアウト1:Welcome To My ”俺の感性”


「デンゼル・カリー=メタル」っていう素晴らしい、実際当たってる見立てがあるんですけど。その方がヒップホップやヘヴィメタルとの関連例に絡めてポップスにもたびたび言及するんですね。たとえば、やっぱりSteven Wilsonの名前を出さなきゃいけないでしょうね。あの人の『To The Bone』や『THE FUTURE BITES』、明らかにカニエ・ウェストからの影響が認められる作品群が、SWなりのポップスのつくりとヒップホップのつくりっていうのが並行しているようであるっていうのが、『俺の感性』のSW関係のレビューで述べられていて。これがどれだけ優れた見立てかっていうのは追々言おうと思うんだけど。
「デンゼル・カリーはメタル」とかと一緒に「ポップスはメタル」とか、確か「いま一番クールなロックはヒップホップ」っていう誰かの発言を引用しながらその方は書いてらっしゃるんですが。私からしてもこの見立ては正しいと思うわけです。SWはもちろん「プログレ」の人ですが、その人が『To The Bone』という優れたポップスのアルバムを作ったことにも脈絡があるんですよ。
 たとえば、70年代の難しげな感じの音楽をやってたプログレバンドが、80年代になった途端もんどり打ってポップスを始めたでしょ。Yesの『Owner of a Lonely Heart』はもちろんですが、Genesis残党組のラザフォードとかフィル・コリンズとか……全部が良かったとは言いませんが。ピーター・ガブリエルがずば抜けてただけですが。プログレ組がいきなり80年代に入ってポップスやり始めたでしょ。あれはひどい裏切りのように思われたのかもしれないけど、でも当たり前で。
 なぜなら、良いプログレを作る素質=良いポップスを作る素質だからです。もちろん優れた和声構造の上で際立ったメロディを聞かせるとか、ドラムのフィルインが優れてるとか、色々あるんだけどそれよりも、決め台詞の存在ですね。ヒップホップ流に言えばパンチラインです。プログレの長ったらしい曲の中でも、やっぱりあの人たちには最低でもひとつパンチラインがあるわけですよ。 “Starless and…” とかね、“I get up, I get down” とか、 “Why don’t you touch me, touch me” とかあるわけでしょ。プログレの人たちの長い曲には必ずパンチラインが仕込まれてるわけです。そういう取っ掛かりのフレーズを長い曲でも必ず入れるっていうのをやってたわけですよ。
 ポップスもやっぱり決め台詞=パンチラインがものを言う音楽ですし、The Beatlesの曲でもABBAの曲でも必ず入ってますよね。だから良いプログレを作る素質と、良いポップスを作る素質は、パンチラインを作るという意味で同じ、そしてヒップホップも同じっていう。この豊かな水脈があることをいま意識して聴いてほしいんですが。当然にして自然な流れなわけです、プログレ→ポップスっていうのは。それを独りで体現するかのようなSWがヒップホップの影響をも受けているっていう、これが『俺の感性』読んでると非常にスリリングで面白いところですね。
 で、また違った方向性から行けるんだけど。『俺の感性』の書き方が素晴らしいのは、もちろん楽曲のレビューが並ぶんだけど、3・4曲どういうふうに凄いっていうのを書いた後に、必ずこの人はプロデューサーに言及するのね。どういう人がプロデュースして、以前に何を手掛けてたかとか、どういう音の作り方に特徴があるかとかをちゃんと加味して、良いとか悪いとかいう評価を紡いでいくっていうやり方で……言うけどね、日本で稿料もらって音楽の批評書いてるライターは全然この域に達してないよ。全然ダメですよ。『俺の感性』読んでるとなんて丁寧な書き方なのかって思う、プロデューサーをちゃんとバンドメンバーの凄さと同じように入れてくるってところがね。
 それが、私のかねてよりの思いと通じるわけです。っていうのは、90年代以降のヘヴィメタルやハードロックやヒップホップは、バンドメンバーじゃなくてプロデューサーの名前で聴いたほうがいいって思ってたんです私はずっと。たとえばクリス・コーネル関連のバンドで、Soundgardenの代表作2枚から、テリー・デイトとマイケル・ベインホーンというプロデューサーの名前を2つ覚えますよね。そのテリー・デイトがどういう人かというと、まずPanteraですよね。『Cowboys from Hell』で、なんて音を作るんだっていうので有名になった人ですが、あのアルバムはやっぱバンドと一緒に成長させてもらった感じがあるらしくて。バンドの求めてるハードコアな音を彼が並走して作るようにして腕を上げたっていう経緯らしいんだけど。だってその1年前Dream Theaterの1st作ってるんだよ、あのシンバルの音が痛いアルバムを作った翌年に『Cowboys from Hell』ですよ。だからペトルーシやポートノイが事あるごとにPanteraすきすきアピールをするじゃん。あれはそういうことですよ。「俺たちの1stをあんな音にしたプロデューサーとあんな素晴らしいアルバムを作ったのか!」ってことですよ。でテリー・デイトは後にSoundgardenの『Badmotorfinger』を手掛け、そして代表格はDeftonesですよね。全部のドラマーがああいう風に聞こえてほしいサウンドだと思うんですよね。テリー・デイトはモダンなグルーヴ感のあるHM/HRの代表格の人であると。
 でSoundgardenの『Superunknown』を手掛けたマイケル・ベインホーンって人は元々、売れ線ヒップホップで出てきた人です。ハービー・ハンコックの『Rockit』っていう、イントロ聞けば誰もが知ってるあの曲を手掛けたプロデューサーです。その人が『Superunknown』とか、Kornの『Untouchables』とか、マンソンの『Mechanical Animals』とか、全ての音が良いヘヴィロック系のアルバムのプロデュースをやってたわけですけど。不思議な流れだねって思うだろうけど、でもねこれはちゃんと脈絡がついてて。クリス・コーネルがSoundgarden解散後に結成したのがAudioslaveですよね。そのアルバムのプロデュースをしたのがリック・ルービンです。Def Jamの共同創業者のうちのひとりです。黒人ではなくユダヤ系で、ハードコアパンク大好きだった人ですが、そのリック・ルービンがSOADとかRHCPとかThe Mars Voltaとかの、いわゆる2000年前後の、しかもプエルトリコ系とかアルメニア系とか純然たるWASPとは違うルーツを持つ人たちのアルバムをプロデュースしてたわけですが。
 ここでねもう既に、リック・ルービンとマイケル・ベインホーンの名前で、ヒップホップと90年代のヘヴィメタルが混ざり合ってたっていうのがわかりますよね、クリス・コーネルの動向追ってるだけで。ベインホーンは売れ線ヒップホップやってた人で、ルービンはRun DMCやPublic Enemyを世に送り出すレーベルの創設者です。そしてデンゼル・カリーがRATMの曲カバーしてるんだけど、RATMのカバーアルバムとライブアルバムをプロデュースしたのもまたリック・ルービンですね。クリス・コーネルがテリー・デイトというモダンなHR/HMの人と組んだあと、売れ線ヒップホップやってたベインホーンと組んで、その後Def Jam創設者のルービンと組んでるってところで、もう90年代のヘヴィメタルとヒップホップっていうのはプロデューサーの流れからして混ざってるんだってことが解らなきゃいけないんです。逆に、見えてたら解ります。これが見えてたらくだらないジャンル的バリアーというか、「いやヒップホップとかチェケラッチョでしょ」とか「こんなのは白人の聴くヘヴィメタルだろ」みたいなつまらない障壁をなくして、分け隔てなく聴くことができるんですよ。だから私はかねてより「90年代以降の音楽はプロデューサー基準で聴くべきだ」と思ってたんです。
 ……なのにさあなんか、「スマパンは俺の青春だった」とかさ、面白くもないマイブラいじりとかさ、ほんと面白くなくて、日本のこの辺の90年代のファンは。つまんねぇなと思ってたら『俺の感性』の書き方を見て、自分の問題意識と通じている! っていうのがわかってすごく嬉しかったんですよね。『俺の感性』のブログは全部素晴らしいから読んでほしいんだけど、「伏線回収」ってワードが出てくる時はだいたい良い回なんだけど、私なりの伏線回収をやってみましょうか。
 売れ線ヒップホップやった後に90年代のモダンなヘヴィメタルを手掛けたマイケル・ベインホーンが、ハンコックのもとで『Rockit』を作ってた時期に、共同作業者がもう1人いて。ビル・ラズウェルというベーシストで、この人はPorcupine Treeのコリン・エドウィンが最も影響を受けたベーシストのうちの1人です。SWがそう証言しております。このビル・ラズウェルが組んでいたMassacreというバンドの楽曲『Killing Time』をカバーしたのが、菊地成孔さんのぺぺ・トルメント・アスカラールです。ね、ぜんぶ伏線回収でしょ。RATM, Soundgarden, Audioslave, Porcupine Tree, Massacre, ぺぺ・トルメント・アスカラール。この全部のファン層かぶってなきゃおかしいんですよ。いま名前あげたバンド全部同等に売れてなきゃおかしいんですよ本当に。
 というふうに、つまらないジャンル障壁で分け隔てられているように見える色んな音楽が、本当は混ざり合ってるっていうことがもうプロデューサーの流れだけでわかるので、そういう聴き方を推奨してたんですが私は。それを『俺の感性』というブログがもう何倍もの精度でやってたので、私はもう自分で音楽について書かなくていいなって思いました。昔は音楽制作に並行して評論もやってたんだけど、こんなによく聴いてくれてる人がいるんだったらもう自分は作るだけでいいなって思いました。
 で、『俺の感性』的にもポップスの言及が多くて。SWはどうか、Ulverはどうか、Bring Me The Horizonはどうか、森は生きているはどうか、って感じでどんどん分析を加えていくのね。それで共通して見出されるのが、「ポップスの再定義」っていうことで。いま挙げたような名前が少しずつズレながら同じことに取り組んでいるっていうのを、韻をズラしながら踏むようにね、刺激的な書き方で書いているブログなので、ぜひ皆さんも検索して読んでいただきたいと思います。で、私の新たな音源の方向性が「ルナ・ポップス」です。

(中略)

◎シャウトアウト2:10年前の福岡市のバンド界隈と土地の精神[genius loci]


 UPANSADとか。『Little Boy』って曲が本当に素晴らしい、Alice in Chainsと同等にツアーをすべきだった人たちです。ジェリー・カントレルのアルバム私も大好きだけど、明らかにスリーピースバンドとしての格はUPANSADが上だよと思わざるを得ないくらい、本当に歌も演奏もリフの作り方も素晴らしいバンドや、THE RUN’Sや、今回イラストをお願いした方のmudai.っていうバンドもいて。そして私がこよなく愛していたトリッシュインザワールド。YouTubeにライブ映像あるから別窓で検索してきてください。トリッシュインザワールドというバンドは、他のバンドとの対バンで初めて見たんだけど、『バニラスカイ』という曲のイントロで「あっ!」と思って。どういうリフだったかというと、ハーモニックマイナーと♭5がどっちも組み込まれているリフだったわけです。終演後にすぐさま話しかけて、ライブ音源もらったあと仲良くなって、1回だけ対バンさせていただく機会があったんですが。
 このトリッシュインザワールドとmudai.ってバンドが私にとっての2強で。作曲者の技術が優れているのはもちろんのこと、生き物としてのバンドの強さが半端じゃなかった人たちで。どういう感じかというと……たとえばノイタミナ系のアニメのタイアップでいくらでも良い評価を受けてたはずの人です。そういう曲がいくらでも書けた人たちです。だから私、同時代のそういう感じのバンドに詳しくないんですよ。切実なことをなんか大仰なオーケストラに乗せて暗く歌うみたいなノイタミナ……なんでこんなノイタミナを悪く言ってるんでしょうね? メジャー系のアニメ制作をそれくらいしか知らないからですけどね。それ系の音源よりもこの人たちのほうバンドとしてすごく強いし、作曲もほんと素晴らしいよって人たちが周りにいてね。それが今回3曲目でギターを弾いていただいた城さんとも通じる話なんですが。
 この福岡の土地の精神[genius loci]っていうのがやっぱりあると思ってるんですよ。九州ってほぼ外国だと思うんだけどね。関西・関東の人たちには申し訳ないけど、関門海峡でパスポート見せなさいって思いますよ。外国だからこっちは。だってそうでしょ、鹿児島から東京行くより上海のほうが近いでしょ。福岡から東京行くよりソウルのほうが近いでしょ。距離的に近いわけですよ。「いや海があるじゃねぇかよ」って言われるかもしれないけど、それ逆で、海があるからこそ交通路が開けるんですよ。でしょ、最澄と空海が行った遣唐使、第18次ですか? あの時の航路って、まず難波津から那の津に行って、松浦経由して、五島着いて、そこからまっすぐ中国です、揚子江の入口目指して。関西→九州→中国っていう経路だったわけですよ。だから歴史的に見れば、いま首都が置かれてる所の以西が、もちろん中国大陸の文化的中継地点である朝鮮半島を介して、日本にもあらゆる文化が伝わっていたって考えるのが、地理的にも歴史的にも普通のことです。九州は朝鮮と中国との、東アジアに開けた文化の交流があったわけだからね。「いや日本の文化は中国の影響なんて受けてないよ」と言い張る人には、「お前の苗字についてるそれは何だ?」って返しておきます。「漢字だろ」っていうね。それで歴史修正的なことを言ってくるような人にはね、まあ、猿は猿のままでいさせてあげましょう。こっちはそんな東のほうみたいな成れの果ての人たちの土地とは違う、東アジアに開けた文化の交通があったわけです、九州っていうのは。だから海を通して色んな人が集まってくるし、色んな人が住み着くわけです。もちろんね、ここも日本国の田舎者の住む所だからさ、「在日外国人は出ていけ」みたいなことを吠えてるやつらもいっぱいいますよ。だから変える、って話でね。私みたいな人間が、九州の本来のgenius lociに基づいて藝術活動を行っている以上、変わります、必ず。私は土地の精神に味方してるだけなので、無理してるあいつらが敗けます。っていうことなので、なぜ私がこういう活動をやっているかっていうことも解りやすくなってきたですよね。
 これの話をもっとしようと思うと、乗越たかおさんっていうコンテンポラリーダンスの評論家の方がいて。私じつは1回会って話したことあるんですが、190cmくらいあって、空手の有段者で、ガタイの強度も知性の強度も尋常じゃないっていう、私が心の底から尊敬している書き手のうちのひとりで。もし私が、戦後の日本の男性の書き手で文化的教養に最も優れた人物を3人挙げろって言われたら、淀川長治さんと、平岡正明さんと、乗越たかおさんを挙げます。で2人死んでるから、もう乗越さんしかいないんですよね。この『ダンス・バイブル』とかねえ、もう全ページ面白いよ。ぜひ読んでいただきたい。

 この乗越たかおさんが福岡のダンスのフェスも手掛けてらっしゃるんだけど。福岡フリンジフェスティバルっていう、私が博多に住んでて金があった時期は毎年観に行ってたフェスがあって、どうしてそういうフェスを盛り上げようと乗越さんが思ったかというと、福岡のダンサーがちょっと諦めに近いことを言うことが多かったらしくて、「うちらやっぱ東京とはハンデがありすぎますよ」みたいなことを言って、その人たちに乗越さんが返したのは、「いや君たちは、地図を近くから見すぎる。離れて見ろ。君たちはもっと中国や韓国に近いじゃないか。福岡という地理の利便を活かして、韓国や中国の人たちとどんどん繋がっていけばいいんだよ。で福岡が日本のコンテンポラリーダンスの玄関口ですって言っちゃえばいいんだよ、バレやしないって」ってふうに励まして、それによって福岡のダンサーの目の色が変わったらしくて。それでフリンジフェスティバルに参加しているいろんなダンスカンパニー、北九州出身の太めパフォーマンス、素晴らしいですよね。ああいう人たちが外国のディレクターやコレオグラファーと共同で作業するようになったっていう、この確固たる流れがあります。
 たとえばOlive Oilさんという、奄美出身らしいトラックメイカーが韓国のピアニストと親しくなって、あっさりアルバム1枚仕上げたみたいな話もあります。これが正しいのです。これが現実です。未だに「地方」のやつらを東京のメジャーレーベルだかに買い上げて、儲けるだけ儲けたらありがとうございましたみたいなことが通じると思ってる奴らは、お前たちが敗けるんだってことを解っといてくださいね。こっちが勝ちます。東アジアに開けているこの九州の土地の精神[genius loci]に従って、韓国や中国の人たちとどんどん面白いことをやっていくっていう、このやり方が絶対に勝ちます。歴史が証明します。私はそれに従っているだけですね。

 で、私は九州南部の、鹿児島の出身なんだけど。福岡に来て10年以上経って色んな人と会いましたが、やっぱね、九州南部出身の人と長く連絡が続くっていうか。1stアルバムも今回のシングルもお願いしたエンジニア、 Soushi Mizuno (STUDIO MASS) さんっていう、本当に素晴らしいエンジニアであり、アーティストだと思ってます。Parvāneの音源がまともに聴いてもらえるとしたら、それはひとえにMizunoさんの技術のおかげですよ。本当にありがとうございますって感じで、私は Sterling Sound の人たちが無料でやってくれるって言われでもしないと、他の人にマスタリングお願いしようとは思ってないです。1stアルバムの作業過程では、私の要望があまりにも特殊だったせいで、同業の人が見たらひっくり返るほど特殊な編集をしてくれたらしいです。そのMizunoさんを紹介してくれた人が Sakai Kei くんっていう、いま東京でエンジニアリングやギターの仕事をしてる人なんだけど。その人も鹿児島ではないけど九州南部の出身なのね。で、今回のアートワークお願いした方も同じで。
 だからやっぱね、九州の南の方の血が合うんでしょうね。そういう人たちと気が合うわけです。その特徴は、鶏を生で喰って体を壊さない人たち、っていう。鳥刺というね、非常に特殊な食文化がありますからね。そういう人たちと私は気が合うんですね。

 今回のアートワークのコンセプトは、Led Zeppelinの『Presence』が元ネタで。あれはなんか幸福そうな家庭の食卓にモノリスが立っていて、ものすごい威圧的な効果を出す、異化をもたらすっていうコンセプトで。今回もなんかチャラついた白人家庭の卓の上に、ものすごく燃えている蛾の絵を合成することによって異化する。旧弊な秩序の中に新しいものをもたらす危険な存在が燃え盛っている、っていう、そういうアートワークにしました。

 これも言っとこう。私はインディペンデントで音楽をやっているわけで、すべての制作のための出費を私費でまかなっているわけですが、私が1stアルバムでギターをとある方にお願いしたのもそうだし、今回城さんにお願いしたのもそうだし、アートワークをお願いした方にもそうなんだけど、私が他人に仕事をお願いするときの仁義っていうのがあって。それは、まず詳細なデータを送る。楽曲の場合は譜面をちゃんと書いて、デモもあわせて、このあたりをこういうふうに弾いていただくことになりますっていう、自分の仕事を具体的にイメージしていただくための材料を先に送るっていうのは当たり前のことですが。予算的な意味でも、「これを請負っていただけるとしたらいくらほどの値段になりますでしょうか」っていうのを、まず相手に伺うのね。で先方が出してきた価格を、100%、そのまま値切らずに支払うっていうことです。
「何を当たり前のこと言ってんの?」と思った人は正しいです。正しいですが、世の中そういう人ばかりでもないみたいで。私もバンドやってた頃に色々見聞きしたけど、今ひっどいことになってるんだろうと思って、Vtuber界隈とか特に。この映像もYouTubeに上がるわけなんで、こういうこともちゃんと言っとこうと思って。
 あのね、私がParvāne始めて以来の制作費を計上したら、ちょっとした中古車の本体価格くらいにはなりますよ。月収以上の予算を一括で支払うことも何度かあったわけなんで、金は出ていきますよ。でもね、それよりも、お願いした仕事が返ってきたときの、これは間違いないことをしてくれるはずだって人にお願いした仕事が返ってきたときの、出来を受け止めたときの歓びというものは何物にも代えがたいですよ。「あの金使ったらいろんなとこ旅行できたのに」みたいなことを一切思わないです。新しい美を生むことができた、その媒介になることができた自分が。っていうその歓びが何もかも圧倒してるので、金遣ってアレだったなみたいなことは頭の中にすら無いんですよね。歓びだけがあるわけで。
 そういうふうにして良い仕事を繋いでいかなければなりません。安くとか無料でとか、そういう仕事を発注する側も受ける側もどんどん貧しくなっていくから。この国は他人の能力に金銭と敬意を支払わない人たちが居座ってるわけだから、そりゃ国民もね、どんどんそういうふうになっていきますよ。でもそれでいいの? っていう。他の人たちの魂が貧しいからといって、あなたの魂の持ち方も貧しくなっていいの? ダメでしょ。死んだほうがマシでしょそれは。
 なので私はどんなに貧しくなってもいま言ったような仁義を通します。「予算これくらいなんでもっと安くしてもらえませんか?」とか、「僕フリーランスでやってて、駆け出しなんですけど熱意はあるんで、無料でやってもらえませんか」とか言うような奴らは、文化祭に行け。そして帰ってくるな。って話なので。こういうことはね、ちゃんと言っとかなきゃいけないから。一応やっときました。

 さっき東京東京って言ったけど、日本の中央集権的なあり方っていうのは、長州と薩摩のやつらが作ったものでしょ。1860年代以降のことでね、薩長のやつらが作ったのが東京っていう、「都市」、「近代国家」であって、その成れの果てが「現代日本語」であるわけだから。私鹿児島出身だから、自分の地元も自分の国の首都もどっちも嫌いだから、こういうことに敏感になるわけですよ。自分の地元の言葉で話すのも厭だし、「標準語」で話すのも厭だから、「現代日本語」というものの貧しさを否応なく感受してしまうので。そのたかが1860年代以降の浅い歴史しかない「国語」みたいなものは、もう私が覆しちゃえばいいと思ってるわけです。それに替わる、「国語」とは違う新たな日本語を到来させればいいと思って、私はParvāneをやってます。
「そんなことできるわけないでしょ?」って思った人に言いたいのは、簡単にできます。ダンテもヘルダーリンもジョイスもやりました。なので私にもできます。「へえ、お前がそんな大したもの書けるとは思えないけどねえ」とか言ってくるような人は、『蛾の死』の1行目で逃げ出すと思います。「ぎゃあ」って言いながらね。詩人って怖いんだよ。そりゃそうだよ、あなたの生活を成立させているその地盤をいきなり崩すみたいなことをやるんだから、詩人は。怖いですよ。脱政治化された詩人なんて話にならないですよ。で、私はそういうことをやろうと思ってます、新たな国語を作り出すというね。

(中略)

◎『アイカツ!』とCynicは相性が良い

 この曲で色んなことをやってるんだけど、まず、前の動画で言ったのは「単なる短調の異化」ってことですが。この曲でまず最初に始まるのは、「定番コード進行の異化」です。

 ポップスに詳しくて今の聴いた人は、Just The Two of Us進行だって解ったと思うんだけど。ただその定番コード進行がどのように異化されてるかっていうと……まずJust The Two of Us進行の解説をしますか、このオクターヴチューニングが完全に狂っているエレキギターで説明をしてみますか。
Just The Two of UsがCメジャーキーの曲だったとしたら、F△7, Em7, Am7, C△7。Cの前にG7が入っててもいいんですが、これがJust The Two of Us進行です。この定番進行を『ピーターパン狩り』にも使ってるんだけど、まあ腐るほど聴いたっていうのが正直な感想だと思うんだけど。Cynicの『Evolutionary Sleeper』と『アイカツ!』の『Trap of Love』のサビのコード進行が同じだ言ったら、信じますか? あれ同じですよ。

 違いはⅠに行く前に、Ⅴ7に行ってるかどうかだけです。
『Trap of Love』の上で『Evolutionary Sleeper』をやってみようか。

 同じ進行だからできるわけです。
 さしずめ、ロバート・ヴェノサがデザインしたプレミアムドレスを纏った紫吹蘭が、ポール・マスヴィダルの作曲にあわせてパフォーマンスしてるって感じですかね。まあ、『アイカツ!』とCynicは相性が良いです。なぜかというと、上昇[ascending]を志向するからですね。これに関しては私が前に書いたブログ記事、『2021年宇宙の旅(雨天中止)』という記事を読んでほしいんですが。
 要するに、『Ascension Codes』を出しちゃったわけで、Cynicは。その重力から逃れることを志向する方向性が『アイカツ!』と同じだっていう話で。何と逆かっていったら『アイカツスターズ!』やToolやParvāneと真逆だっていうことです。こっちは下降[descending]なんですね。上昇は志向しないわけです。「抗えぬ力に寄り添いながら」であって、「幸福なものは下降する」ですね。白銀リリィとライナー・マリア・リルケが全く同じことを言っているということが踏まえられたら、もうその記事読まずに解ると思うんだけど。まあねえ……多くは言いません。『Traced in Air』の時までは本当に尊敬してたから、Cynicのことは。ちょっと私とは違う道を行ったな、って感じですね。単純に思うのは、人間なのに翔んでたら、墜っこちたときに大怪我するよ。やめたほうがいいよ、っていう。まあそれくらいですね。

 (中略)

『ピーターパン狩り』のサビでもそれをやってるんだけど、この曲E♭mキーだから、それでこのコード進行を使おうとC♭(B)になるわけだけど。Bの9thから始まってるんだけど、この定番コード進行は、一番近いのは、Dizzy Mizz Lizzyのみんな大好き『Glory』ですね。あれに一番近い。
 ベースが全音ずつ上がってるのはわかると思うんだけど、その上の声部の動きがひじょうに優れてるんですね。度数を言ったほうがいいかな。G♭のルート・長3度・長7度、G♭のルート・長3度・長6度、全音上がってA♭のルート・長3度・短7度、で短7度が半音下がって長6度ですね。で、全音上がったB♭mのトライアド。この完全五度が半音上がって短6度、その短6度がさらに全音上がって短7度。本当に素晴らしいんだけど、でもベースはこう全音で上がってるだけね。
 この『Glory』って曲の強さは、もうこれ一発にあると言っても過言ではないわけですよ。こういう定番の進行を単なるトライアドだけではなく7thの交えかたが巧いし、定番のやつをひとつ奥深い使い方をするっていう曲なので、しかもそれをハードロックの音質でやってるわけなので、「これは相当わかってる子たちが出てきたぞ」って思われるに決まってるわけですよね。
 
 で、それに一番近いのが私の『ピーターパン狩り』で。

 (中略)

◎変拍子は使っておりません

 そして、大事なこと。変拍子は使っておりません。
 1stアルバムも、今回のシングルにいたるまで、変拍子は一切使っておりません。
「うそつけよ」って思った人いるだろうけど、本当です。たとえば1stアルバムの『御破算』は、5連符と8分音符と13連符が交互に1小節ごとに行ったり来たりするっていうセクションがあって、それが変拍子に聞こえるんだろうけど、でも拍子記号は4/4のままです。拍の分割のしかたが変わってるだけです。
 それを菊地成孔さんのモダンポリリズム講義でのタームで、微分=アフリカ的ポリリズムっていうんだけど、今回の『ピーターパン狩り』には、それとは別の積分=インド系ポリリズムが出てくる箇所があります。それが2番のサビ終わりですね。

◎かわいいドラム


 手打ちのドラムとはどういうことかっていうと。普通に打つうちに、ズレが生じるわけですよ当然。これを、なんか甘えた人は、「オレJ Dillaに影響受けちゃってるんで」とか言って、適当に手で打ったやつを直さずに「ああ斬新なビートできちゃいました、また」みたいなこと言って、まあ、単に乱雑なだけだからゴミなんですけど。そういうことになっちゃいけないので、私はクオンタイズをかけるか/かけないか、揺らいだままにするか/均等なビットマップに修正するかっていうのを、非常に厳しく、1音1音ジャッジを入れてます。
 クオンタイズというのはこういう、正しい拍のビットマップに修正することができるんだけど。でも100%合わせてしまうとやっぱり機械的なビートになっちゃうから。クオンタイズかけるにしても何%かけるかな、33%かな、18%くらいかな、うーん……22%かな? みたいな判断を、すべてのドラムのパーツでやっていってるわけです。

 で、このかわいいドラムのね。クオンタイズをかけたりかけなかったりしたドラムっていうのはやっぱりかわいいんですよね。

 今のフィルインの元ネタは、Mr. Bigの『Take Cover』のイントロ。
 昔バンドやってたとき、ドラマーに、「『Take Cover』のイントロってすごい難しいって聞いたんだけど、あれ何やってるの?」って訊いたら、「あれリニアなんすよ。他のドラムスのパーツが。同じ音と一緒に鳴ってる瞬間が一つもないように出来てるんす」って教えてもらって。そのことを思い出しながら作りました。

 その続きもね、たとえば……
 今のとこの「ツツーン ツツーン ツツーン ツツーン」かわいいですよね。
 ハイハットの「ツツーン ツツーン ツツーン ツツーン」、かわいい。叩きながら「わたしが一番かわいい」って思いながら叩いてほしいですね、ドラマーにね、性別問わずにね。テイラー・ホーキンスみたいな人に叩いてほしいですよね。

◎シャウトアウト3:『Harridan』のボーカルトラックの小ささ


『ピーターパン狩り』が特にそうだけど、今回のミキシングは、ボーカルをあえて引き立てるようなことはしないって決めました。ミキシングの段階でそうしたし、マスタリングでも、ボーカルが一番大きく聞こえる時でもスネアより大きくならないようにお願いしました。
 それがなぜかというと、ボーカルトラックとベーストラックは基本的に単声だから、ひとつの音の情報しかないから、どういう聞こえ方しても音符の情報は伝わってしまうわけですよ。『ピーターパン狩り』のサビはヘヴィな凝ったことをやってるギターと、さらに凝ったことをやってるキーボードが左右に入ってるわけなんで、その2つのコード楽器の情報をちゃんとステレオミックスで受け取ってもらわないと困るわけなので。ボーカルとベースラインの単声情報は、ちゃんと情報を聞き取ってもらえる程度にとどめて、他のものを際立たせました。他の音を下げて自分の声を際立たせるっていう考えは、私にはありません。

 ……なんかさ、ボカロの新進気鋭のP様が作った音なんかはさ、まず第1にボーカルで、第2になんかジャカジャカしたジャズマスの音で、「えっドラム? ドラムはなんか小節線の区切りがわかればいいでしょ」みたいな感じにやっちゃうと思うんだけど、本当にダメだからそういうのは。耳も悪くなるしリズム感も悪くなるから。
 あのね、ボーカルトラックをやたらと目立たせたがるっていうのは、ろくな曲が作れてないっていう焦りのあらわれですよ。ちゃんと音それぞれが噛み合って曲としての強度があるなら、ボーカルの音を立たせる必要はないって思うわけですよ。成立してるわけだから。で不安を抱えてる奴らは、いい感じのことを言ってるふうのボーカルで、何かやった感を出そうとするわけでしょ。デカさで誤魔化そうとするわけでしょ。
 デカさで誤魔化そうとするっていうのは常に不安のあらわれです。何かの隠喩ではありませんが。でも米ソの核開発がまんまそうでしょ。「あいつよりでっかくないと! あいつよりでっかくないと!」って言ってどんどんどうしようもないことになっていったわけでしょ。デカさで誤魔化すっていうのは常に不安のあらわれです。
 私がPorcupine Treeの新曲『Harridan』を聴いたときに、何に感動したかっていうと、ボーカルトラックの小ささに感動しましたねあれは。SWらしくもなく、前半で既にしゃくる感じの声出してるでしょ。やろうと思えばホイットニー・ヒューストンみたいな音像にできるわけですよ、彼らは、ミキシングの状態で。でもしてない。ドラムス、ベースライン、キーボード、ギターと同等の音的情報としてボーカルを扱っているっていう、ここがねえやっぱ好きなところ、尊敬しちゃうなあってところですよねえ。さすが小賢しい大英帝国の末裔であるだけありますね。余裕がありますね、米ソとは違ってね。


◎躁病エピソーズ


 これも言っとく必要があると思うんだけど、『ピーターパン狩り』の歌詞、とくに一番最初の行を見て、「発達障害者への差別だこの曲は」って思う人がいるかもしれないんだけど。
 まず、なぜ「」が付いてるかってことが問題になってきますね。この「発達できない奴ら全員死刑」が「」でくくられてるのは、引用句で、誰かの言葉だからです。誰の言葉でしょう。私の見立てでは、ヘーゲルです。ヘーゲルの声ですこれは。
「歴史の終わりに向かってまっすぐ発達できないような人間は、キャベツが切られるように水が一口飲まれるようにして死んでしまうだけなのだ!」って弁証法的に意識が高い人の言葉を引用することからこのヴァースは始まるわけですが、その2行目で私が出てきて、「いや、お前も死ぬよ」って言うわけです。そのヘーゲルみたいなやつに向かってね。「発達できようができまいが人間は死ぬよ」って言うことから始めるわけです。まあ端的な事実です。「発達できようができまいが死ぬので、やれるうちにやれることをやっときましょうね」っていう、Buddha Brandの『生きる』って曲と全く同じテーマですね。
 そのことを、やってるようでやらない奴の生態解剖、非常に詳細な生態解剖を1曲かけてやるわけなんで。皮膚の裏側まで捲るようなやり方は私のリリシズムですよね。

 そういう意味でこの曲には発達障害者への差別的意図は全く含まれていないし、人類の創造性への挑戦を言ってるわけです、この曲は。
 っていうか、私も明らかに双極性障害だからね。躁が99%/鬱が1%の双極性障害ですね。単極性じゃん、って思うかもしれなんだけど。ひどいんだよ、日本の精神臨床界は。たとえば、 “単極性障害” で検索しても、イコール鬱ってことで、下の方に振れる単極性障害のことしか書いてないの、日本語の文献って。さすがに精神医学会の年報まで読んだわけじゃないですけど。単極性の上の方はどうなったっていう、躁だけの人はいないことにされてるのかっていう。低音だけ操作できるEQみたいなことですよね。躁病者には何の苦しみも無いとでも言いたいのかしらん。
 色々ありますよ、私の躁病エピソード。たとえば2年前に小説書いてて、いちばん力が要るとわかってた第17章をさあ書くかって思ったら、1日で38,500字書いてたっていう。1日で38,500字打ってると何が起こるかっていうと、手のここが低温火傷になります。書いた後で気づきました、真っ赤になってて。MacBookのスチールのボディに手を押し付けて1日中ずっとやってたから低温火傷になってたっていうね、終わった後で気づきましたよね、まあ躁病っぽいですよね。
 で、それを書き終わった後、「わあこんなにできちゃった、俺やっぱ才能あるんだ」とか、一切思いませんでした。単に、「これと同じことを繰り返したら死ぬ」って思いました。「これは異常なことだから、もう今日は何も考えずに寝よう」っていう感じですねその日は。これも躁病者あるあるですね、依存症と相性が悪いっていうね。アルコール依存症みたいなのは、あれハイになりたい人じゃなくて常に自分をローに保っておきたい人の嗜癖だからね、だから繰り返すわけですけど。
 それ以外にも、Parvāneの1stアルバム作ってるときも、朝から夕方まで立ちっぱなしの仕事をした後、3時間さらに立ちっぱなしで、ボーカルレコーディングをぶっ続けでやったりね。躁病のなせる業ですよね、全裸でね。真夏だったから全裸で、クーラーもつけたくないし換気扇回したらノイズが入るしで、もう仕方ないから全部脱いで、マイクの前で3時間立ちっぱなしで、ものすごいハイになりながらやってたっていう。
 だから私はどうしても落ち込むことができないタイプの人間で、それがどうしても暗い気分になってしまうタイプの人の神経を逆撫でして踏み躙るようなことばかり言ってしまうと思うんですけど、まあしょうがないそれは。日本国においては、うつ病の人のほうが最大多数派で、私みたいな人がマイノリティなんだから、私に配慮してください。多様性の世界ですから。躁病者が圧倒的マイノリティなので配慮してくださいっていうね、そういうことです。
 基本的に私がやろうとしてるのは、陽気な病気を蔓延させましょうってことなのね。治さなくていいと思います、心療内科行く人も精神科行く人も。治さなくていいです、はっきり言いますけど。たとえば楽器もさ、人間も楽器と同じように被造物で、造られた物だから、個々に特徴があるわけですよ。ダンエレクトロとジャクソンのギターは全然違うでしょ。それを見つけて、「ハデな音が出ないからダンエレクトロなんかダメだ」とか、「ジャクソンみたいなのはメタル弾く奴だけが使うんだ」って捨てちゃうのは、貧しい精神でしょ。造られたものひとつひとつに特徴があって、それには理由があって、使い途もあるわけです。それが個性というものであり、多様性というものであるので、ダンエレクトロに無理にハムバッカーを積む必要はないし、ジャクソン使って無理に繊細な音を出す必要もありません。その違い、生まれ持った素質っていうのは、それだけで既に意味あるものです。なので、それらをいちいち「平均的」なものにあわせて「治療」しないで、全部悪いところもいいところも積極的に発揮していきましょうっていうのが、私の考えです。まあ、Buddha Brandですよね。私もその精神性に基づいてるんですが、さらにチャーリー・パーカーとか、セロニアス・モンクとか、ジャコ・パストリアスみたいな、ああいう本物の病者、20世紀的な病者を見てると、どうやらあの人たちは本当に治す気が全く見当たらないっていうのが、治す気なかったんだろうなっていうのが伝記的事実として伝わってくるのが素晴らしいなって思いますね。


◎『Song of Unborn』への回答


 2曲目『判断』ですが。
 今回の3曲は、全部SWの『Song of Unborn』への回答みたいなところがあるんですね。
『Song of Unborn』は生まれる前の胎児が、「果たして外側の世界には生まれる価値があるのだろうか?」と葛藤するような、それを外側から励ますみたいな感じの曲で。私は正直、そういうテーマの曲を作ること自体どうなの? って思うわけですよ。生まれるしかないんだから人間は。生まれた後の人間がなんか……反出生主義ですか? 面白くもない。そういうのを作るの自体どうなのって思うんだけど、でもやっぱりSWですから、歌詞を読んでみると。
“Don’t be afraid to die” と “Don’t be afraid to be alive” っていう歌詞が続けて出てくるんだよね。 to die と to be alive って、同じテーマで共存していい2行じゃないだろ! って思うんだけど、でも考えてみれば。人間が生まれるっていうことは、死ぬことができる確実な可能性を手に入れるってことだから、 to be alive と to die は全然矛盾しませんよね、『Song of Unborn』という曲のコンセプトとして。
 だからやっぱSWさすがだなあと思いますよ。私も高校生の頃からのお手本だから、ポーキュパイン・トゥリーとSWは。尊敬してるけど、常に反感半分/賞賛半分なわけですよ。どうなの? って思うところが半分あるんだけど、でもやっぱりそう思っても作品としてふれてみると「ああ、やっぱ筋通ってる」って思わされるから凄いですよね。
 大事ですよこういうのは。100%崇拝とか、100%憎悪っていうのは常に幼児性のあらわれですよ。だからああいう、オリンピックの誰彼みたいなことになってしまうわけでしょ。神だあ推しだあアイドルだあって思ってるから、炎上させられたときに「あーんわたしの推しがこんな人だったという側面が暴かれてしまったしわたしもその事実に目を背けてきたところがあったな」みたいな、くっだらないことをnoteに垂れ流すわけでしょ。くだらないですから。子供のすることですから、そういうのはね。
 もし、常に賞賛半分/反感半分で臨んでいれば、自分の尊敬する人が何かやらかしたとしても、「ああ、この人にはこういうところが確かにあるな」ってフォルダに入れることができるでしょ。その人の全部を、とりあえず自分の評価に収めることができるわけでしょ。100%崇拝しかしないと、すごいしょうもないこじらせ方をするんで、幼児的だし、どうしようもないです。やめたほうがいいです本当に。精神衛生とか以前に、幼稚なんでやめたほうがいいですね。

「そもそも君は生まれたことがなかったよ」っていうのは『ピーターパン狩り』にも出てくるし、今回の主要テーマなんですが。私1stアルバムの制作ビデオログで、マクベス的クリエイターとハムレット的クリエイターの話をしたんだけど。
 マクベス的っていうのは私みたいなもので、こうやって次から次へと作品にしていくタイプで、自分の頭の中にあるコンセプトをどんどん外在化させていって、自分がやったことで自分が追い詰められるっていうタイプなんだけど。でも創造性っていうのはそういうことだから、中井久夫さんも『創造と癒し序説』で、素晴らしい書き方で恐ろしいことに言及しておられましたので。
 それに対してハムレット的なクリエイターっていうのは、ブログに「自分こういう小説書こうと思ってます、こういう漫画連載したいなあと思ってます、キャラクター設定・世界観こんな感じなんですよ」ていうのをダラッダラ並べて、結局、肝心の作品は創らないまま何年も何十年も過ごしてるっていう、ハムレット的「クリエイター」のありかたなんですが。
 それが、ハムレット=ピーターパンであって、そういう存在がこの『判断』でもディスり尽くされてるっていうことだと思っていただければいいですね。
 やらない奴に対して、「お前は自由意志をもって判断してると思ってるのかもしれないけど、お前は生まれてすらいないから」っていう。シンプルなテーマです。

◎「隠蔽された起源」の音楽


「隠蔽された起源の音楽」っていうジャンルがあると思ってて。これはもうニーチェ主義者にしか解らない……でもロックがそうでしょ。アフリカから奴隷として連れられてきた奴隷の子孫の人たちが労働の手遊びに歌っていた、しかし和声的な秩序をナチュラルな方法で、天然で食い破った感のある、ポリモーダルな揺らぎの音楽であるブルースを、扁平に、4の倍数で割れるリズムと和声の秩序にして、大衆的なものとして流通可能にしましたっていうのがロックンロールでしょ。
 それと同じで、フラメンコって聞いたら皆さん情熱的なスペイン人がやってるのを連想するかもしれないんだけど、それは単なるパブリックイメージというもので。フラメンコというのはアラビア音楽だ、と私は踏んでるわけです。
 これは平岡正明さんの、マイルス 『Sketches of Spain』とコルトレーン『Olé』に関する論考を読んで、あっと気付かされたことですが。

 いま言われているスペインっていうのは、西暦1492年にコンキスタドール(注:主に16世紀にアメリカ大陸へ侵入した者を指すconquistadorを使ってしまっているが、単に一般名詞で「侵略者」の意なので、まあ誤用ではない)がグラナダを陥とすまでは、アラビア世界の一部だったわけです。南仏も同じです。オック語とかアラビア語の影響が非常に強い地域ですし、私の知り合いから聞いた話ですが、スペイン語の語彙の6割はアラビア語由来らしいです。
 ユダヤ教徒もムスリムも他の多神教徒も、人頭税さえ払えば平和裡に共存できる秩序があったわけだから。そこにコンキスタドールがやってきて破壊したわけだからね。で、その後に、スペインという国民国家的なイメージとして流通したのがフラメンコだと私は思っており、でもその底にはアラビアからの影響が間違いなくあると私は踏んでるわけです。ロックンロールにとってのブルースと同じですよ。
 それが「隠蔽された起源としての音楽」としてロックやフラメンコがあると私は踏んでいて、日本出身のムスリムである私がフラメンコという音楽をあえてやることで何を試みているかっていうのが、もうわかりやすくなってきたと思うんだけど。
 たとえば文学でも同じで。プロヴァンス、ラングドック、ラレドあたりで育まれた宮廷愛っていう文化があって。それは女性を高貴な知性の立場に置き、男がそれに傅くっていう騎士のありかたで。吟唱詩人ですね、リュートを弾きながら。高貴な知性=女性への愛を歌うっていう精神があって、それがアルビジョア十字軍によってプロヴァンスが破壊されることによって失われるんだけど、その宮廷愛的な文体だけは残って、それに影響を受けたのがダンテやセルバンテスや十字架のヨハネですっていう、こんな当たり前のことさえ話が通じなくなってる人がいっぱいいるように、同じことが音楽にも起こっていて。
 ブルースという、見失われている起源としての音楽の上にコンクリートが舗装されるようにして、ロックが出て。アラビア音楽の上に国民国家的な舗装を施したのがフラメンコであろう、と。私はそのコンクリートを剥がすというよりは、もっと別のやり方で、そのアラビア音楽という土の匂いを嗅ぎながら、道路の上で何かをやるっていう。喩えて言うならばそういうことを目指したわけですな。


◎Tales of Integra


 私の頭の中に、とある企画書があって。
『テイルズ・オブ』シリーズのことを私は殆ど知らないんですが。ヴェスペリアってやつが武侠小説っぽくて面白いよってことしか知らないんですが『テイルズ・オブ』シリーズみたいな架空のRPGの企画書が頭の中にあって。それがどういうものかというと……
 3つの世界が関わるわけです。まず中国。漢語世界で、東アジアの中心ですね。2つめ、イスラーム世界。セム語世界で一神教世界ですね。もちろんタラス川畔の頃を念頭に置いてますよ。そして第3勢力としてインドがある。印欧語の世界であり、多神教的世界であり、中国とは唐の西域経営を通して関わってますよね。
 この中国=漢語世界、イスラーム=セム語世界、インド=印欧語世界という3つの勢力が絡み合いながら、詩とか音楽の話をずっとしているっていう、架空のRPGの企画書があって。それに三国志、水滸伝、封神演義を全部合わせたような、ひじょうに愉快なものが頭の中にあるわけです。単に楽しいわけで。それがアルバムの大変な作業してる時に、休憩中にそのことを自動的に考えるから、ページがどんどん増えていくっていう感じになってたんですけどね。
 で、その架空の企画書の……呼びづらいな。
 なんだろう……『Tales of Integra』とかね。いま勝手に考えましたけどね。直訳すれば「積分の物語」となりますかね。中国語っぽく言えば「積分譚」ですね。「積分譚」いいね。なんか紅楼夢とか、封神演義みたいな感じで中国の奇書にまた新たなものが加わったなって感じがしますね。


◎『ユリシーズ』の話をしながらいきなり泣き出す人


「戦争そのものは人類史の発達に何ら良い影響を及ぼさない」っていうこれは、ジェイムス・ジョイス主義です。
 bluddlefilthっていう単語が『フィネガンズ・ウェイク』で出てきますが、これはbattlefieldのもじりで、blood+bubble+filthをbattlefieldっていう単語に押っ被せてるわけですが、「勇猛果敢な騎兵隊の突撃で始まった戦争も、結局はギトギトした不潔な血の泡が残されるだけだろ」っていう。ここが、ジョイスがヴィーコとは全く違うところで。戦争とは別の闘いがあるっていうことを、彼は『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』で描いたと思うんだけど。
 これがねえ、『ユリシーズ』の主人公の1人であるブルームを見てても解るわけですよ。人種的マイノリティのハンガリー系ユダヤ人がダブリンに住んでるわけですけど、彼には彼なりの戦争があるわけですよ。どの章か忘れたけど、反ユダヤ主義者に絡まれるんだよね酒場で。いわゆる老人ネトウヨみたいな奴らが、聞こえよがしにユダヤ人の悪口を言うわけですよ。
 それでブルームは、もう途中で流石に耐えきれなくなって、立ち上がって「でもそんなことは何にもならない、力、憎しみ、歴史、そういうものはすべて男にとてっても女にとってもそういうものは人生じゃないんです、侮辱や憎悪は。そういうのは本当の人生とは正反対なんだってことは誰だってわかってますよ」ってブルームがいきなりキレて言うのね。で、そいつらは「いきなり何言ってんだお前」って返すんだけど、それに対してブルームが「愛です。憎しみの反対です」って言うんだけど、カッコいいんだよねえここがもう。

『ユリシーズ』が最終的に行き着くのは、しょうもない広告取りの男と、不逞な妻の、愛の勝利なわけです。最後のフレーズ知ってますよね、yesです。色々嫌な目に遭ってきた夫の帰りを、不倫して帰ってきたモリーはベッドの中で迎えるんだけど、でも既に、彼女の心はめらめら大尽ボイランのところにはもういなくて、あのムチムチした魅力的な男のことはもう「しょうもなかった」って思いつつあるんだよねモリーは。その代わりに、ベッドに帰ってきた自分の、決して強くはない、好戦的でもない、人種的偏見に苛まれることもある夫の帰りを迎え入れて、その帰還に対してyesと言う。ここがオデュッセイアのラストとは違うとこです。弓で他の求婚者を殺すことをやめて、単に不倫して帰ってきた妻と、寝取られ男のベッドでの同衾を最後に書くことで、それに対してyesと言うわけです。
 ブルームみたいな好戦的ではないやり方で世界に立ち向かうのもyesだし、モリーみたいにムチムチした他の男に心惑わされてしまうのもyesだし、その迷った2人が最終的に同じ床に横たわるのもyesだって言うわけですよ『ユリシーズ』は。愛の勝利ですよ。なんでこんなこともわからないかなあって思うくらい、正しいと思うんだよね、人間のあり方としてね。
 それが『フィネガンズ・ウェイク』でもそうなわけです。HCEという男性と、ALPという女性の、色々行った末での最終的な愛の勝利です。ALPっていう女性主人公の名前は、 Anna Livia Plurabelle かな、リフィー川のことだよね。でもそのALPは、And Love Prevails で、そして愛が勝利する、の意味です。戦争の果てに愛が勝利するっていうのが、ジョイスが描き続けてきたことで、それがヴィーコの言うような発達段階的な戦争とは別の戦争を闘っているのだ、っていうのがジェイムス・ジョイス主義であって、私の『角刀牛虫我』もそうです。蟹が襲ってくる戦争自体は大したことではありません。その結果として「新しい人」が到来すること、カニエ・間・ガガーリンの到来にyesと言うわけで、私はそこに人類の希望を見てるわけです。
 ウクライナがああなりましたが、国家が起こした戦争に従事するのでも、国家が起こした戦争に心擾されるのでもなく、別の戦争を闘わなければなりませんし、あなた自身が別の戦争で在らければなりません。あなた自身が別の戦争にならなければいけないので。それが私が一貫して描いていることです。DC/PRGもそうだし、ジェイムス・ジョイスもそうだし、JAZZ DOMMUNISTERSでのN/Kのリリックを引用すれば「新しい音楽に触れたときの気持ち、それは恐怖に似ている」わけなので、その恐怖を抑圧するのでも無かったことにしてしまうのでもなく、ただそれそのものとして、生きる力として活かすには、ダンスが必要なので。それが私のParvāneの活動の最大のテーマだっていうのは、もうおわかりいただけますね。

◎for the eye altering alters all


 この動画の冒頭で、 “for the eye altering alters all” というウィリアム・ブレイクの詩が引用されてると思うんだけど。これは実に見事だと思うわけで、前に私、この The Mental Traveller の日本語訳を作ろうと思ったんだけど。「万象を改める新なる眼によって」って訳したのかな。 “for the eye altering alters all” っていうのは、ブレイクの実に見事な表現だと思うんだけど。この the eye って眼を単数形で書いてるところがキモだと思うのね。両眼が一斉に altering, 別のものになってるわけではないんですよ。片眼、片方の眼の見方が変わるだけで世界が変わるっていうことを、たった1行で謂ってると思うんです。
 リズムもそうでしょ。単に左右で均等に取ってるリズムを片方ズラせばポリリズムになるでしょ。そして和声もそうでしょ。両手で押さえてるキーボードの片方をズラせばonコードになるし、和声的な役割も全く違ったものになるでしょ。半分だけ変えることによって、大きな変化はもたらされるんです。特に人間の肉体的な表現にとっては特にそうです。
 だから、両眼一斉に変わるっていう、なんかいきなり世界が変わったみたいなことはヒステリーだから、単に。なんか「『アイカツ!』に出会って人生変わりました」とか、「一生推します」とか、「ディープステイトとイルミナティの危険性を私が説明してあげましょう」みたいなことを言う人たちは、両眼が一斉にラリってるわけでしょ。すごい貧しいことだと思うんですよね。左右に1つずつ備わってる器官のうち、それぞれ別のものを感受できるのに、2つ備わってる器官が1つのものしか感受してないっていうのは、なんて貧しい状態なんだって思いませんか? 思うわけです、私は。
 ブレイクの “for the eye altering alters all” 、the eyeを単数形で書いてるのを見ても、私は同じことを謂ってると思います。両手で均等に取ってるリズムの片方をズラせば、もっと新たな、豊かな領野が拓けるわけなんで、それをParvāneでやってるわけなんで、それがテーマです。異化、というテーマで話すには抜群の引用だと思ったので冒頭に入れました。なので皆さんも半分だけズラすっていうことを考えてくださいね。

https://integralverse93.wixsite.com/aypg2p

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