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テクノロジーアートへの参加 アート/デザイン×テクノロジー

※2018.8のFB記事全文より #とは

先週末は「Art by teamLab 下鴨神社 糺の森の光の祭」でteamLab初体験してきました。
ずっと本棚に温めていた本で復習もしましたので、
ここ数年のテクノロジーアート体験も含め、感じていること、ここ数日考えていることを(文字生産の練習として)メモできればと思います。

https://www.teamlab.art/jp/w/resonatingforest_shimogamo/

数年前FBで良く見た記事が、「モノ消費ーコト消費」に関連するもの。2016年にドイツで行ったインターンシップでも、社員の皆さんがこのキーワードで議論をされていたのを思い出します。先日参加したR&Designing innovation2018の学会でもビックデータやデザインシンキングと関連を持たせながら経験価値などに言及する発表がいくつか見受けられました。

経産省によると、''コト消費''とは、『魅力的なサービスや空間設計等によりデザインされた「時間」を顧客が消費すること。例えば、まち歩きや外湯巡りなど。』

留学でロンドン滞在時には、デザイン関連のイベントにたくさん参加しました。そのうちの1つがTakramの展示でした。テクノロジー×アートの体験が乏しく、プロジェクションマッピングとか友人の作品くらいしか知らなかったので、こういう表現が出来るものかと感心した思い出があります。


https://ja.takram.com/(design innovation firm, Takram)
http://shikanjima-port.jp/event_detail.php?id=105(友人の最近の活動)

今回のTeamLabで示唆を得たのは、
モノ消費だけではなく、コト消費のスピードはえげつなく早く、既にユーザーが''経験を消費''することにある意味で無関心になっている。つまり、一定の目的(インスタ映え、写真撮影)以外で価値をなし得ていないのでは?ということです。
猪子氏は『自然と人の営みがずっと続いてきた場所だから、自分という存在が連続性の上にあることを、この空間を歩きながら思い出してもらえたらいいなと思っています(一部抜粋)』と述べてるけど、そのような感覚を持った人間はどれ程いるのだろうか。
もちろん、人多すぎるとか様々な理由からインタラクティブアートが成立していない状況であったことは間違いないけど。

人々の行動や様子は''消費''そのものだったように見えました。
この体験は以前にもあって、ルーブル美術館で人がごった返した空間にあるモナリザ展示の写真や動画を撮りながら通りすぎていく観光客を見たときと同じ絶望感を得ました。アートを''消費''することにどのような価値があるのだろうと。
このような側面からも、''意味''を求める学問の優位性を強く感じました。

今回もう1つ注目すべき点は、ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」の1つでもある''神社''での作品である、ということ。

猪子氏が『ここは人と自然の営みが長く続いてきた場所で、千年以上続く都市に、こんなに多くの森があるというのは、世界でも珍しいと思います。今回は、そんな森と神社を活かしたアート展になっています(一部抜粋)』とコメントしているように

その環境を含め、SNSや現地での大衆の感想は「幻想的」、「きれい」、「神秘的」がメイン。

その中で疑問なのが、そもそも、我々にとって''神社''とはどういう存在なのかということ。
私の感覚では、少なくとも現代の日本人にとっては、拝礼、つまり神様にご挨拶にいく場所なのかと。しかし、その為には、お清めやご挨拶の参拝手順や鳥居でのお辞儀、真ん中は神様の通り道、などなど、色んなルールを通じて成立されるよね?というくらいの知識しかなく、、、(今後要勉強)。

しかし、無論鳥居で挨拶してる人などおらず、終いにはついでとばかりに終点でお賽銭をほりこみ、お守りを購入する人々。

この夏の読書で得た知識によると、
ある歴史人類学者(トッド)は近年の欧米の動きをメインとし、「信仰システムの崩壊」を指摘していました。
同じく日本人の社会学者(真幸)も信仰の外部委託による「超域的な第三者の審級の不在」に言及しています。世界で無神論が主流化しているとさえ。

今回の体験は真にこれを具現化した縮小世界であったため、日本にて「不可能性の時代」を感覚した貴重な経験を受けることができました。

同時に(これを書きながらも)、無知を反省し、これからはしっかり学び教養を身に付けていきたいと思います。

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