見出し画像

間違った問から正解は導けない

標準的な日本の公立小学校では、本人の好き嫌いや得意不得意に関係なく、クラス単位で同じ時間に同じ科目で同じ問題を解くという、教える側にも教えられる側にもまぁまぁ負荷がかかる教育方針でことが進みますよね。

自分の作業に向き合う代わりに、勝手に近くの友達の机へ移動して、その友達の絵に一緒に絵具を塗ったり、その子のプリントで一緒に分数の問題を解いたりして、先生から「他の人のことはいいから、まず自分のことをしなさい」と注意されたことを覚えています(先生、すみませんでした!)。

人のことにごちゃごちゃと首を突っ込んで、自分の仕事から逃げるなと。

人のことにおせっかいを焼いていると、それなりに忙しくて、何かをやっている感があったりしますし、更にその友達から「手伝ってくれてありがとう」なんて言われると、変な充実感もあったりして。

でも、やっぱりそれではアカンのです。

それはあくまでも「何かをやっている感」なだけで、実際には自分のやるべきことが全然できないわけですから。

これと同じようなことは、大人になっても世の中にあるなと思います。

ちょっと荒れてる職場の人間関係だとか、
責任を果たしてくれない上司だとか、
もっとやる気を出して欲しい部下だとか

とかく「自分以外の誰か」の問題を、なんとかしようとしてしまうことってあると思います。

でも、いくら良い意図を持っていても、そもそも自分がオーナーではないことを解決して「あげる」ことはできないわけで。それはこちらの能力の高い低いと関係なく、構図として「代行」は無理です。

英語で"Mind your own business"と言うように、集中すべきなのは、自分がオーナーになれることだけです。前述のような問題に対して、他人がすべきことと自分がすべきことを、きちんと分離して考えることが大切です。

この分離ができていないと、そもそもの論点がズレたり、問うべき問が立てられなかったりします。

そして、そもそもの問いがズレていたら、その先いくら考えても妥当な答えは出せないです。

だから、どれだけ早く良い答えを出すかの前に、そもそも「正しい問を立てる」ことが大切ですし、そのためには(他者がその人自身の守備範囲にコミットできるように支援することも含めて)自分の守備範囲を間違わないことが必要ですよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?