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随筆(2020/3/19):信頼を構築する不断の努力と、信頼を持続させる不断の努力

1.信頼を構築する不断の努力

信頼を構築しようとする不断の努力は、信頼を構築したいと思っている人が払うものだ。

そして、そんなことをしたところで、信頼を構築できるかどうかは五分五分だし、それが「食い物にされる信頼」だったらもうおしまいだ。

私が構築してきた信頼は、そのようなものだ。それでは困る。が、これは私の問題で、私がナントカしなければならない。ナントカします。

2.「信頼に応える不断の努力」とはどういうことか


で、ここから一気にガリッとした話になるが、これと同様に、相手がこれを受け入れたなら、今度は相手方は「信頼に応える不断の努力」をしなければならない。

たいてい、していない。

というか、「目的は達成させてやっただろう。これで何が不満なんだ」をやる人、かなり多い。

ここに大きな勘違いがあるように思う。

「信頼を構築する不断の努力」と、「信頼を持続させる不断の努力」というのは、たいてい別のもので、構築が終わったら、次の持続の努力は絶対に必要なんですよ。

創業と、守成は、違う。創業は創業で、守成は守成で、それぞれやらねばならない。

それをちゃんとしようとしているか? 自分も相手も「構築できました、終わり」とか考えていやしまいか?

そりゃあ、そんなことしてたら、「終わり」だよ。持続しないよ。

「信頼に応える不断の努力」、単に構築に応えることだけではなく、共に持続させることも含む。

3.なぜ「共に」信頼を持続させる不断の努力をしなければならないのか

信頼を構築する不断の努力をしたい側が、信頼を構築する不断の努力を受け入れる、自らは構築する謂れがない側と、対等かというと、そりゃあ挑戦者が王者と対等な訳がない。

で、いったん信頼を構築したら、事情は一変する。ぶっちゃけ、「信頼を持続する不断の努力をしたい側に対して、信頼を持続する不断の努力を受け入れ、自らは持続する謂れがない」というの、果たして、それ、いわゆる、パートナーシップか?

ふつう、パートナーシップという考えには、「対等な人間関係」という意味合いが含意されていると思うのよ。家父長制とかはまた別に、というか家父長制とは一応は区別されるものとして、そういうパートナーシップが求められていたのではないのか。

そこでそういう受け身の対応をした側、能動的にやってる側から、「あっ、この人、本当は自分との対等な人間関係、パートナーシップをやる気がないのだ」と失望されて、何ならその場で見限られても、何一つしょうがないと思うんですよ。

4.信頼において盗人猛々しさが許されるだけの「特権」が認められなくなるときが来る

特に、「構築した側」と「持続したい側」が一致しており、「構築を受け入れた、構築しない側」と「持続を受け入れたい、持続しない側」が一致していた場合、そりゃあ後者は「パートナーシップを持続する気がない。と判断されても何一つしょうがない」し、前者に途方もない深い不信感を抱かれますよ。

だってさー、これ、
「信頼の構築は受け入れた。
それはそれとして、それまでに先方が費やして捧げて損なってきたリソースは、基本的に償わない。
当方はそのような特権的な地位にあり、それを対等な人間関係のために手放すという意図はない。
自分にとって、対等な人間関係とは、その程度の位置付けのものであり、その程度のものでしかない」
ということにしかならないもの。

たいへんキツいことを言うが、それは
「人間は、目的であり、手段ではない。
だが、その肝心の目的たる人間が、盗人猛々しい特権者だった。
とてつもなく哀しいことである。
こんな精神状態で、こんなことをする人に対して、今後も信頼を持続する努力、見合わんし、やってられっか」
という印象をもたらしうる。

これは、まあ、水面下で極めて大きな不信感を残すよ。そりゃそうだよ。当たり前だよ…

5.向こう側はそもそも「説明に値する」だけの信頼すら構築していない可能性がある

え?

「そういうの説明すりゃいいのに、何で言わないんだ。バカではなかろうか」?

えーと。

まず、「バカではなかろうか」の時点で

「すごい。「バカではなかろうか」と言い放って、なおも話を真に受けてもらえると思っている。よく今まで懲りずにここまで来たな」

以外の感想がないんですよね。

これで怒られが発生していない人、まあ「甘やかされてここまで来た」としか言えないと思いますよ。

怒られてなお「自分は悪くない」というパターンもあり得ますが、「お前はゴミと同等に扱うからよろしくな」と平然と悪びれもせずに言える文化圏の人と、私はかかわり合いになりたくないんですよね。

そういう人、他人のことを悪びれもせずにゴミと同等に扱うし、ふつうに捨てるし、何なら壊すでしょ? 気が向いて、腕力が伴っていれば。やらない理由の方がないんだもんな。(そういう「やらない理由」として、しばしば倫理観があるんで、この場合、肝心要のそれこそがないんだからな)

***

まあ、そういう話は百歩譲ったとしても、正直ベースの話をしますと、ぶっちゃけ「先方に説明して伝わるという信頼がない」と思われているからです。

先方は、好かれているかもしれないが、何度も言うが、信頼されてないし、信頼を「持続させる」努力をしていないからです。むしろ、先方への不信感は、そのままだと日を増すごとに大きくなる。

不信感を抱かれている、むしろ「こいつとは会話が成り立たない」と確信されているのに、会話すればするほどその確信は強化されていくだけなのに、こういうデリケートな話なんかするか? 状況的に、「あり」か「なし」かで言えば、個人的にはかなり「なし」のやつですね。

6.せめて、ある努力は認知して、やってきた努力は評価しましょう

仕事や家事などの努力をさせられて、認知も評価もされない日々が続くの、まあ職場や自宅にダンプカーを突っ込ませたくなるくらい不愉快ですよ。

そんなので、信頼関係、あるわけがない。

というか、これで殺されても何一つしょうがないと思いますよ。

これでキレる人を、どうやって止められる?

これを止めようとしている人たちは、基本的には「報いず、盗み、それをナメることで「あいつには報いなくてよく、これは盗みに相当しない」と正当化してきた」側の人たちでしょう。そりゃあ何言っても一蹴されるに決まってる。

だから、自分はせめて、他の方の努力を、なかったことにはしないようにしたいのです。報い、盗まず、ナメないようにしたいのです。信頼関係もさることながら、まずは殺されないために。

皆さんも、今日も一日、せめて他人には殺されないように、できれば信頼のためにも、やっていきましょう。

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