随筆(2020/1/28):丁寧さとかったるさ、爽快感と粗雑さ、と見せかけてより本質に迫るものとしての解像度とグルーヴ感

よく、漫画とかの創作物について、
「このジャンルの方が描写等が丁寧であるから読者層が尊く、比較的にあのジャンルは描写等が粗雑であるから読者層が卑しい」
という話を、したり顔でする人、いるじゃないですか。
「そこまで言ってない、そういう邪推をするということは、お前はあのジャンルの読者層だな、そういう態度を取るからお前らは卑しいんだ」
と反応する人、いるでしょうが、これはもちろん
「お前らあのジャンルの読者層は卑しい」
ということをほぼ自動的に意味しますし、これは相手方のみならず、かなり多くの人たちから軽蔑されます。やめた方が良いでしょう

丁寧な漫画を読んでいる人が、まず陥りがちな罠があり、そういう人が読む漫画、しばしば「緩急の付け方がかったるい」んです。平たく言えば、「話が長い」
公正を期すために書きますが、私の好きな漫画『胎界主』も、周囲の何人かに
「何話も掌編エピソードを書いていて、話全体のうねりが遅い。そこまで乗り切れない。
は? 掌編エピソードは締めくくりの七話まであり、八話から大きな展開がある? そこからはめくるめく世界? そこまで読んでられまへんな」

とふつうに言われます。ドハマリ読者の私ですら「まあそれはそうなんですよね」と思っちゃうもの。

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逆に、テンポのよい爽快な漫画、しばしば「雑」です。これは、上の理屈を言う人の目には、断固としてそう見えています。これを覆すのはとても難しい。ギャグ漫画だと顕著ですね。
コマの内容の密度をギチギチに高めて、しかもテンポを力尽くで進めるという戦術を採用している作家となると、例えば近作の『コアゴア』時代のG=ヒコロウになってしまいます。
彼については、かなり読者を選ぶ作家であり、しかも非常に奇妙なことに、
「テンポを力尽くで進める以外の芸風を持たない」
とか
「コマの内容の密度が高すぎてテンポが悪い」
とか、別の人が言っているのだとしても、同じものを見ているとは思えない、あまりにも両極端な批判が出てくる、そういう損な扱いを受けている。ということは書かなければならないでしょう。
これ、自分が言われたら、まあ人間不信にもなるレベルでしょうね…
テンポよく爽快にやろうとすることには、こういう両極端でまるで両立しがたい批判をほぼ同時に受けるという、およそやってられないレベルの不愉快を被る、というデメリットが付きまといます。
「そんな損しかしない鍛錬、したくないなあ」と作家が思っても、何一つしょうがないでしょうね。
「私はそれでもdo it」という作家も多いでしょうが、例えば私がこれをやって耐えられるかどうかは極めて怪しいし、「これを耐えて当然」という安易な意見、まるで聞く気にならないでしょうね。

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さて、「なぜこうなるのか」という話になります。
これについては、別に「丁寧だとかったるい、爽快だと粗雑になる」という話に持っていく気はありません。「そういうことじゃあない」んですよ。

「もし、複数のものに、何らかの重複した傾向があるのだとしたら、それらは要するに同じものだから。優れたものの曖昧な塊か、劣ったものの曖昧な塊かのいずれかだから」という話に持っていきたがる人、います。
「何でもかんでも安易な二項対立に収斂する」の、本当に良くないですよ。
「優れたものの曖昧な塊」と、「劣ったものの曖昧な塊」があるというモデルに「のみ」興味があり、「その他」に対する興味が極端に薄弱な人、散見されます。
が、もちろんそんなことしていたら、「その他」を何の意識も配慮もなく粗略に扱ったり、粗略に扱われた「その他」にボコり返されたりするので…
それ、思考のコストは安いかもしれませんが、生活のリスクは当然高くなりますよ。
「楽が出来るのなら死んでも良い」という世界観の人、割りといますが、そういうのなら良いですよ。それなら、生活のリスク、確かに「どうでも良い」。
でも、「生活のコストがどうでも良い訳ではない、死ぬのは面倒事より嫌だ」という世界観の人、こんなことしてたら、その人の価値観に鑑みて、単純に「損」をするだけになってしまいます…

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そういうことで、「価値Aを重んじて価値Bはどうでも良い」場合、
価値Aにおいてはすごいプラスが、
価値Bにおいてはすごくないプラスかゼロかマイナスが、
結果として観測される、という成り行きになりがちです。

もちろん、「価値Bを重んじて価値Aはどうでもいい」場合、
価値Aにおいてはすごくないプラスかゼロかマイナスが、
価値Bにおいてはすごいプラスが、
結果として観測される、という成り行きになりがちです。

こうなると、両者の結果は、ざっくりと一見逆に見えます。

ですが、ここから猛烈に直感に反するが、よく見ると完全に当たり前の、しかもヤバい話になります。
何かと言うと、これ、価値Aと価値Bが逆のもの「でなくても」全然構わないんですよ。
え? どういうこと?
つまりは、これらが単に、あんまり似ていない、というだけの場合でも、両者の結果は一見逆になってしまうのです。これはとんでもなく恐ろしい罠です。
例えば、甘いお菓子と塩辛いおかき、「塩辛いおかきは甘くないから甘いお菓子の逆」「甘いお菓子は塩辛くないから塩辛いおかきの逆」とか言う人がいたら、まあバカにされるでしょう。
で、このレベルのバグが、価値においては、いともたやすく起きている。しかも、しばしば、何の反省もなく、何なら偉そうな顔してやっている。
もちろんこれは同じようにバカみたいな話です。これらは、上で説明した仕組みにおいては、「同じパターン」の異なる具体例に過ぎない。
扱っているのが味じゃなくて価値であるからといって、特にバカ度が変わる訳じゃあないんですよね。

こうなると、二つの結果が逆に見えることだけから、二つの価値が逆であるということは、別に何も言えなくなります。
もはやそこからもう眉に唾つけていかなければならない。

マジか。だが話を追っていくとそうならざるを得ない…

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さて、「この場合、価値Aと価値Bとは、ざっくりと、どのようなものか?」という話になります。

私が考えているのは、これらは「解像度」「グルーヴ感」なのではないか、ということです。

要するに、
「立ち止まって凝視すべき細かいところが丁寧に書いてあるか」
ということと、
「立ち止まらないで、物事の流れに身を任せて、全体としてはどういう印象を受けるか」
ということです。

強いて言えば、ここに「立ち止まって凝視するか、立ち止まらないで流れに身を任せるか」という対立構図を見いだすことが出来るかもしれません。
が、もちろんこれらは、別に何ら反対のものではなく、何なら兼ねることは可能です。好きなように立ち止まって凝視しても良いし、流れに身を任せても良い。
作家としては、これはだいぶ困難なチャレンジだし、やってちゃんとそれなりに報われるとも限らない、ということは既に書いたのですが、do itの人はもちろんいらっしゃるでしょう。

単に、「解像度を上げることに価値を置いているか」、「心地よいグルーヴ感になることに価値を置いているか」の、二つの審美的な価値観の軸があるに過ぎません。
どちらが尊い、卑しいという話ではない。

初っ端で言っていた、解像度系の人の、要するに「解像度が尊く、グルーヴ感は卑しい」という意見は、一般に何ら通用する謂れがない。
もちろん、グルーヴ感が尊く、解像度が卑しい」という話も、同様に一般に通用しない。
解像度系の人は解像度系が好きで、グルーヴ感を評価するとは限らない。グルーヴ感系の人はグルーヴ感が好きで、解像度を評価するとは限らない。それだけの話です。

しかも、上の話は、2つの軸のYesとNoだ。ざっくり、4つのパターンがある、ということです。
さっき言った、だいぶ困難なチャレンジ、「解像度もグルーヴ感も重視する」というのは、困難ではあるものの、もちろん可能です。
もちろん、「解像度もグルーヴ感も全然ダメ」というのが一番ダメです。そこは作る側は気をつけねばなりません。

最終的には、自分が「解像度系が好きで、グルーヴ感を評価するとは限らない、解像度系の人」向けに作っているか、
グルーヴ感が好きで、解像度を評価するとは限らない、グルーヴ感系の人」向けに作っているか、という見極めはしておいた方がいいと思います。
前者なら、「自分がグルーヴ感を愛していて、グルーヴ感をアピールしても、それほど評価されない」ことは織り込み済みでなきゃならんし、
後者なら、「自分が解像度を愛していて、解像度をアピールしても、それほど評価されない」ことは織り込み済みでなきゃならん訳です。

両者を兼ねる人、当然ながら少なくなる。
何ならそうでない純解像度系の人純グルーヴ感系の人から、全く逆のことで
余計なグルーヴ感に力を入れている、そんなもん要らない、『雑』(作家の心の声:そーじゃねー)」
とか
余計な解像度に力を入れている、そんなもん要らない、『かったるい』(作家の心の声:そーゆーこっちゃねー)」
とか批判されるまである。
これはおそらくメチャクチャ腹立たしいでしょう。投入した労力のコストの評価は、袋叩きだった。ふつうはやってられないでしょうね。

でもやる? 茨の道でも? ああ…素晴らしいな…そういう欲張り、私もある。私もそういう風に頑張りたいな。
そういうことを、あくまでもやっていきたい人には、「頑張れるなら、頑張って下さい。頑張れなくなってもしょうがないですが…」ということしか言えないのです。
私もいつか頑張っていきたいと思います。やっていきましょう。

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