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円盤に乗る派「幸福な島の夜」

ハロウィンの賑わいを避けて、代々木公園から山手通りを歩いてアゴラ劇場に向かう。松濤の山頂に続く坂道を高そうなカジュアルに身を包んだ父と、ジャックオーランタンを持った雪の女王が集合場所に向かって急いでいた。

尾久の「円盤に乗る場」は、なんじゃ?と気になって周辺をうろうろしていたけれど、「円盤に乗る派」の公演を見るのは初めて。ついに宇宙基地に到着という感じ。ファンとか擁護者っぽい人が多そう、これはファンミーティングなのだろうか、みんな知り合い?HGの人しかいない圧。

50人規模くらいの会場は、客席がスタジアムみたいに舞台を囲む、見やすい配置だった。真四角だから、どこから見るかで劇の印象が違うんだろう。床の間のあるような位置に大きな装置があり、チューブでつながっていたりして、音が出そう?動きそう?なにやら因果が含めてある。天井からは塩ビパイプでできたパイプオルガンが、唸ったりなったりしている。開演前からホーンテッドマンションのような陰気な前奏曲を奏でる。

島設定、近未来らしい、デストピアなのかもしれない。ボロボロの衣装を着て、わずかな食糧と文明の残骸をかき集めてサバイバルしている、全滅まであと数日ということなのか。特に登場人物について説明はなく、彼らがまちまちに語ることを拾い集めて物語の全容を探るほかない。ミステリー仕立てのようだ。日曜の朝に憧れている。口々に学習したてのようなぎこちない言葉が話され、体は言葉を追いかけて感情を発し、震えている。高熱の時みたい。皆感染症で死にかけてブルブルしているか、壊れかけたアンドロイドか、ゾンビなのか。やがて筋が堂々巡りを始め、劇中盤で意識がぼんやりしてくる。物語を取り逃す、役の関係性はわからない、役割はあるみたいだけど、全部で役が何人なのかもあいまいに。

演技において、人間を演じているのか、人工知能の入れ物を演じているのか、区別をつけるためのメソッドがここで構築されつつあるのかな。
結局、物語の顛末はよくわからない、そうしてあったのだろう。

俳優のことを考える。テレビに出てくる美貌の人たちは、町で見かけると頭が小さくて区別がつかない。カメラならアップにできるけど、実際の視線はズームできないから、顔立ちがみな同じ、等身が細かいモデル体型の人、という印象になりがち。美貌の人は生身の舞台には向かない気がしてくる。

目の前で演じる身体には、それなりのボリュームと、感情がほとばしり出てくる大きさの顔がないと面白みも迫力も半減する。テレビを見慣れている私など、時に舞台俳優の表現が受け止めきれず、消化不良を起こす。ここに出演する俳優はみんなそれに合致する。感情の発露が複雑で、人間としての美しさの種類が違うのだ。この人間像を造形しているとしたら、とても高度で計算された構成なのだろうと思った。

舞台に置かれた大きな装置、インスタレーションとして面白い。パイプオルガンも、パイプとチューブだらけの装置も思わせぶりだけれど、実は劇中の役割がなかった。肩透かしを食らってしまう。演劇の装置としては、機能性をもたず、あくまでも雰囲気を生む装置として存在していて、相互関係はない。電話を取る以外、そこにある意味は、登場人物たちにとってはないに等しい。見えていないのかもしれない?

この巨大な装置が、大きな音を出してうねるパイプが、ひょっとして彼らには見えていないのか???

ぞっとした。

もうちょっと考えてみようと思う。恐るべし円盤。