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彼方のうた@ポレポレ東中野

女の子がおじさんを尾行する話、というだけで観に行こうと思ってしまった映画「彼方のうた」。「春原さんのうた」で定評がある杉田協士監督の作品だので。それから端田新菜さんが出演しているので。

こういうのってどうなんだろう。ヒロインが偶然映ってしまった感のある粗めの画角で登場するって。ドキュメンタリーの風味は観客の立ち位置を微調整する。尾行する彼女を尾行する、目撃しちゃった感を出すため。ああ、私たちは普通の映画の観客より罪深い秘密の存在なのだと知らされる。座位を強制する椅子に座らされたお尻のムズムズ。

唐突に始まり、背景は説明されない。ヒロイン?は多分、都会で文化的な場所で生きうるスキルがある。この女と、今不自然に話しかけた女は誰で、尾行している男は誰なのか?推測するほかはないわけで。この3人やそれを取り巻く人たちの関係性はどうなっていて、どうなっていくのか。

穢れない少女のような若い人、憂いを含んだ様子の年上のふたり、実はとんでもないことを共有している?それを知っていることは全員に致命的なほど?秘密はなんだろうか。穴の深さ、闇の暗さを想像してしまのは、中村あんの存在感なのかもしれないし、それを鑑賞する映画なのかも。いたいけな善男善女に見えるような演出が、よけいに疑いを誘う。それもどれも含んでおいてそこにいるのか、あなたたちは、と。(現実にそういう人いるね、寡黙で儚げで無垢で、人を惹きつけては魂を喰う…それも無邪気に…存在が怖い集団疑惑を仄かに感じさせる、考えすぎか!)

彼らの都会的な生活を盗み見ている盗撮常習者のように、得たものから想像するしかない。こういう風に映画を撮ることで表現されているのは、映画を撮るとはどういうことか、結果的に撮影されたものは何かということ。撮影される対象とは何か、何を撮影したのかということ。映像を生み出すのが容易な、誰でもできることになった今、あえてプロが演出をして映画を撮るとは。カメラの前で演じている俳優をどう演出するのか、逆算して結果的に何を鑑賞者に伝えたいのか。共犯はカメラの向こうにいる。

起承転結のある物語ではなく、断片をつなぐことでも伝わることはある。彼らが説明困難なトラウマを抱えているらしいこと、脆いながらも社会で生きて行かれるバランス感覚の持ち主で、ギリギリやっていっている人たちだということ。しかしながら、最後までミステリーは解決しない。観客は彼らの事情から疎外され続けるばかり。

リアルにはみんなそうだ。目の前の人の秘密はわからない。だからこそ劇映画の特性は精神安定に寄与すると思う。観客は安全に登場人物の事情に立ち入って、当事者のような情報量で傍観することができる超能力をもった特権階級になれる。他人の心の中が語られ、関係者の設定が見えているのだ。

見慣れた日本の都市の風景と人々の暮らし。だがどこか現実感がない、映画だから、夢なのかも。終始カメラを意識する。この夢を観ているのは誰?こういうスロームービーが脳内に滞空する時間は長く、またあの時間を味わおうと、彼らともう一度出会おうと、再度劇場に行くかもしれない。