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九十九話 永定河渡河

 心ここにあらず。
 一瞬、自分が四面楚歌や袋の鼠になる場面を想像して、言葉を失う。
 虚無、抜け殻となった浅井。魂は離脱し、まるでしゃぼん玉のように浮遊していた。
 
 そんな浅井を気遣ってか、寺尾は話を変える。
 「そういえば、面白いこともあったな」
 「面白いこと?!」
 急展開に虚を突かれ、我を取り戻した。
 「永定河の河原を盧溝橋から南へ約八百メートル行ったところに射撃場があった。そこで、小銃射撃の教習会を受けていたんだが、昼飯が終わって叉銃休憩していると、いきなり教官の山本少尉が『今から水泳を始める』と言い出したんだ」
 「水泳ですか!」
 「面白いだろ。突然のことに皆驚いた。暑さは厳しかったが、永定河は赤く濁っており、とても泳げるような水じゃない。しかも、河幅が数百メートルはある。されど、教官の命令は絶対。皆褌一丁になり、恐る恐る河へ入っていると、さらに『総員、対岸までヨーソロー宜く候!』ときた。『俺らはいつから海軍になったんだ』という新兵の小声が聞こえて来たが、拒否できるはずもない。赤茶けた濁流の中、青息吐息で泳いで、往復させられた。後から思うに、あれは、新兵に泳がせて渡河点を探らせたんだよ」
 「それ、皆大丈夫だったんでしょうか?!泳ぎが苦手な人とか・・・。犠牲者が出たのでは・・・」
 「そこは知らない。ただ、河はそこまで深くなかった気がした。後から聞いた話だが、鉄橋附近の水深は八十cmだったとか」
 「意外と浅いですね・・・」
 「まぁ、あの辺は大きな中洲や中之島もあったので、俺たちがいた所と比べようもない。泳いでいたしな。あと、河の中なので、何がいるかわからないから気味が悪かったよ。ともかく、必死で対岸を目指した。復路は気分が滅入ったな」
 「水深や流れを探るための水泳だったんですね。実戦に備えて」
 「ああ、間違いない。一期検閲後、六月に入ると、北平の日本人小学生が民衆に石を投げられ怪我をしたとか、京包線で旅行中の日本婦人が官警に裸にされて身体検査されたとか、北平の大学生が激しい抗日、排日、侮日デモをやっているとか、そんな話題がやけに増えた。さらに、二期の検閲近くなると、永定河の堤防や龍王廟附近にあった敵のコンクリート造りのトーチカ陣地で異変が起きた。このトーチカは、満州事変の頃、日本軍の進攻を止めるために作ったと思われ、土に埋もれて点在していた。それが、いつの間にか土が除かれ、銃眼が不気味に口を開けてこちらを向いていたんだ。本格的な戦争にはならなくても、皆、局地戦程度は覚悟したよ」

 自分たちより切羽詰まった環境だな・・・。
 兵長が訓練していた頃の話を聞き、浅井は正直驚いた。同時に、聯隊が、先輩方の弛まぬ努力によって、今日こんにちまで築かれてきたことを知り、胸が熱くなる。 
 兵長は、いよいよ事件当日を話し始めた。


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