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二刀流

戦後の成瀬家は、今流行りの言葉でいうと、皆「二刀流」だった。祖父の正勝は東京大学教授であったし、父は大手テレビ局の副部長をやっていた。父に至っては、俳句のホトトギス派の重鎮としての顔もあった。しかし俳句というものは、その当時は、職業になり得なかったように思う。それを考えると、今の俳諧の世界とその当時では違うと思ってしまうのは、私だけであろうか?
かくいう私も、大学卒業後は大手印刷会社の子会社に就職。そこから始まって、父が亡くなるまでに10社くらい転職したであろうか?
私が身勝手に転職を繰り返したように見えるが、言い訳をするわけではないけれど、いつも犬山城のトラブルがきっかけになり、転職を余儀なくしたと、私は言いたい。
そのくらい母の亡くなった後の成瀬家は、私から見ても、どんどん世離れしていった。そして犬山城個人所有時代の最後の頃には、情けないことだが、正直私もついていけない状況だった。その時、唯一父が私の話に耳を傾けてくれたおかげで、私が財団設立に向けて舵を切ることが出来た。その事に私は、今父に感謝したい。その時ももちろん私は「二刀流」であった。


財団設立には、周りの理解が不可欠であったことは事実であるが、一番の難関は、旧態依然としていた成瀬家の考え方を、変えさせることにあったことは、過言ではない。
また私の人生を人に話すと、波乱万丈だと言う人が多いが、まああれほどの国宝犬山城の傍らに生きれば、こんなこともあり?と思って、私はいる。だから私自身、私の人生が辛いと思ったことは、あまりない。それと、私がぼうっとしていて、天然だからかもしれない。しかし振り返ると、いつも言ってしまうが、犬山城という国宝建造物があっから、今の私があるような気がする。そのくらい私は犬山城が大好きだ。片思いだが。この気持ちがなければ、私は時々心が折れることがあって、ダメだったかもしれない。



成瀬家にとっての犬山城は、ただの建造物ではない。何せ400年以上お付き合いしている相棒だ。私たち成瀬家の中では、城は生きていると考えられている。これがなかなか言うことを聞かない。かなり自分中心だ。撮影などあると、犬山城は、自分の背景には青空が不可欠と言わんばかりに天気を良くする。だが昔は、私が一緒だと不満らしく、天気が悪かった。
しかし私は、犬山城はこれだけ素晴らしい姿・形をしているし、築490年近くの建造物だ。当然当たり前の態度だと、私は諦めている。ところが最近、修理をこまめにしているせいか、少し私にも犬山城は気を遣うようになり、私との撮影の時でも、天気が良くなるようになった気がする。

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