自殺をしないための3つの考え方

今朝、ランニングしながら、本で読んだ次の言葉について考えていました。

一般的に言って、生命の恐怖が死の恐怖にたちまさる段階に到達するや否や、人間はおのが生命に終止符を打つものであることが、見出されるであろう。

ショウペンハウエル、斎藤訳、自殺について、岩波文庫、p.80

「自殺するのは、生命の恐怖が死の恐怖を上回るときである」という考えはシンプルで直感的に正しそうだったので、のどに刺さった魚の小骨のように心に残っていました。

例えば、経済的な不安による恐怖だったり、人間関係による恐怖だったり、何らかの人生の苦しみや、苦しみが訪れる予感に伴う恐怖が限界を越えると死にたくなるというのは非常に理解できる感覚がありました。

私が最近ランニングを始めたのは、生きることの苦しみを少しでも和らげるためでした。

そうした工夫の一つの目標として、「生きることの恐怖が死ぬことの恐怖を上回らないくらいには恐怖を減らす脳内物質を出す」を設定するのは妥当と思われました。

ただし、いつも元気に運動できるとは限りません。そこで、「生きることの恐怖が死ぬことの恐怖を上回らないための考え方」をインストールすれば、死ぬリスクを減らせるのではないかと思い、その代表的な3つの考え方へと走りながら整理できたので、ここに記します。


考え方①:道徳的な考え方

真っ先に思いついたのは、道徳的に考えることで、死ぬことの恐怖を大きくすることで、死なないようにするというものです。

例えば、「あなたが死ぬと悲しむ人がいますよ」だとか、「あなたが死ぬとあなたの家族が路頭に迷って生活に苦しみますよ」とか、「死ぬことは悪いことです」などと、死んだ後の心残りになることや罪悪感を与えることで、死の恐怖を強め、生の恐怖を上回らせることで、生を選ばせる考え方です。

逆に、「生きることは素晴らしい」とか、「生きていればいいこともある」とか、「生きてるだけで丸儲け」のように、生きることを肯定する言葉で、生の恐怖を弱め、生を選ばせる積極的で楽観的な考え方も考えられます。

どちらの考え方も一般的で、小中学校の道徳の時間などからよく聞く言葉で馴染み深い人も多いでしょう。

しかし、死を考えている人間は、そもそも生きていて悲惨な目に遭うことで「生きていてもいいことない」と思っていたり、「自分のことを大切に思う人などいない」と思っていたり、「生きてるだけで大損」と考えていたり、「こんなに自分を苦しめた世界に復讐してやる」と考えていたりするなど、道徳的な考え方と真逆の世界の見方をしていてもおかしくないので、本当に道徳的な言葉を苦しんでいる人間にかけて効果があるかは疑問があります。

そもそも、生まれつき道徳的に振る舞えないことで苦しんでいたり、ゆとりがないから道徳的に振る舞えなかったり、綺麗事が嫌いだったりする人は、「命の電話」のような人間の善意で成り立つセーフティネットへの反感すら生まれても無理もないことでしょう。

したがって、あくまで個人的には、道徳的な考え方で救われる人間であればすでに幸福な人間であり、そうでないからこその生きづらさなのであれば、あまり有効ではないように思われました。

考え方②:宗教的な考え方

二つ目に考えたのは、宗教的な考え方によるアプローチです。

具体的には、「自殺すると死後の世界-地獄や煉獄など-で苦しむ」といった言葉や、「自殺した人が生まれ変わると、人間以外の生物となって苦しむ」と言った言葉があります。

そうすると、自殺した後の苦しみへの恐怖が、今生きていることの恐怖より大きくなるので、仕方なく生を選ぶことになります。

あるいは、「自殺せずに現世で苦しめば、来世や天国で幸せになれる」など「自殺しなければ死んだ後に得られる幸福がある」という教えによって、今苦しんでいることの意味を感じられて、生の恐怖を和らげるといった考え方もあり得ます。

このことをニーチェは、死の恐怖から死後の恐怖と指摘しました。

死にゆく人々の言葉、挙措、状態の嘘だらけの解釈。そこでは、たとえば、死に対する恐怖が「死後」に対する恐怖と根本的に取りちがえられる…

ニーチェ著
原佑訳
権力への意志

一八九
(559)
p.195
ちくま学芸文庫

ショウペンハウエルは、一神教の僧侶に対する怒りを込めながら、次の言葉のように批判しています。

一神教の宗教の僧侶どもが、聖書によってもまた適切な論拠によっても支持されていないにも拘らず、あんなにも並はずれて活潑な熱心さをもって自殺を排撃しているのには、何かしらその底に隠された理由がひそんでいるに違いないように思われる。その理由というのは、自発的に生命を放棄するなどとは、「すべて甚だ善し」と宣うたあの方に対して余りに失礼な、というようなことではあるまいか。ーもしそうとすれば、ここにもまたこれらの宗教の義務づけられた楽天主義が見出されるというわけで、この楽天主義は自殺から告発せられないように先手を打って自殺を告発しているのである。

ショウペンハウエル、斎藤訳、自殺について、岩波文庫、p.79

自殺をしないために宗教を信仰するのは、宗教に苦手な感情を持つ人の多い日本では受け入れにくいとも言えます。

考え方③:論理的な考え方

ここまで道徳的な考え方と宗教的な考え方を見てきました。

しかし、それらは人による相性もあり、万人に当てはまる一般性がないのが問題だと考えました。

そこで、万人に当てはまる、より抽象的な自殺の動機として、芥川龍之介の自殺した理由である「将来に対するただぼんやりした不安」という言葉や、藤村操という華厳の滝で自殺した人の自殺した理由である「人生不可解」に着目し、「生がよくわからない」「生が不可解」という論点をクリアすれば死ななくて済むのではないかと考えました。

そこで、私は、逆に唯一知っていることは何かを考えたとき、デカルトの「我思うゆえに我あり」という言葉における「自分が存在していること」が我々の知っている唯一のことだと気づきました。

逆に、我々が存在しなければ、「我存在しないゆえに我思わない」となり、一切が不可解になります。

従って、論理的に考えると、生のほうが死よりも「我が存在する」ことへの信頼感と安心感があるので、恐怖は少ないと考えました。

私は以上の「論理的な考え方」で、死よりも生を選ぼうと強く思いました。

自殺したくなった時の理屈っぽいやり過ごし方として参考なれば幸いです。

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