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プエラ・エテルナ(少女論4)

マリと森茉莉とアナイス・ニン。ここに私はシルヴィア・プラスも並べたい。ドラマティックな死を遂げたアメリカの美しい現代作家、シルヴィア。

彼女たちの少女性について考えるとき、浮かび上がるのが「父の娘」という概念だ。シルヴィアのたぐいまれなる詩的霊感もまた、父親との関係を通して得られたといえるだろう。
 
ユング派の女流分析家レナードは、大人になった女性たちの化粧顔の下の、傷ついた自己や隠れた絶望感、孤独感の原因を娘と父親の関係と結びつけて説いている。父親への複雑で神秘的な想いが女性たちをずっと父の娘「永遠の少女(プエラ・エテルナ)」でいさせてしまうのだ、と。たとえば彼女たちがそうであるように(ことわっておくが、すべての少女は父の娘である)。
 
「少女とは、自分の身が生殖・繁殖のために外に向ってひらかれていることを自覚していない女の謂なのだ。もしくは自覚したがらないといいかえてもよい」と書いているのは、前にも引用した矢川澄子である。
 
プエラ・エテルナは芸術の傾向を決定するのに十分な因子になりうるかもしれないけれど、それだけじゃ足りないという気もする。作品を世に送り出すためには強靭な知性がなくてはいけない。
 

Eileen Alice Soper, ”Stop Thief!” . 1926, The Art Institute of Chicago

子ども時代とは誰にとっても魔法的だ。
ノーマン・ブラウンのいうように、人間の芸術活動のひそかな目的とは、失われた子どもの肉体を少しずつ発見していくことにあると思えてならない。この地上の時間のなかで、かつて自分のものだった、ひとつの完璧な時間をポケットから取り出しては愛でる少女たち。

マリと森茉莉とアナイス・ニン、それからシルヴィア・プラスのリアリティがいつも半分だけ欠けているのはきっと、そのためだ。そんなことをさらりとやりぬけて、生き抜けてしまう彼女たちに私はぞっこんなのである。 

(終)  
     


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