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手の肖像

何年か前、書店でなにげなく開いた雑誌で、カルステン・ソーマ―レン(Karsten Thormaehlen)という耳慣れない写真家の撮影した手の写真が、私の目を捉えた。

手。といっても、より綿密にいえば指先から手首にかけて。さらに細かくいうと、それは右手なのだった。

手は、モノクロームの背景に沈んでいくようにも、浮かんでいるようにも、融けていくようにもみえた。
写っているのは明らかに人間の手なのに、粗い質感にしても、ひっそりとした気配にしても、この手にはとても植物的な気配がある。そしてそれはたぶん、老人特有の「枯れた感じ」と関係があるように思う。

動作の途中でひたと動きを止めたようにも見える右手には、吸いこまれるような美しさがあって、こまかく波打つ皺から、彼女(あるいは彼)がかなり年老いていることがわかる。時計も結婚指輪もつけていない、むき出しの手。

手に名前や出身地や宗派が書いてあるわけもないから、写真から知ることのできる情報はほとんどない。言ってしまえば、それは見知らぬ他人の手に過ぎない。およそすれちがうことも、交錯することも、ましてや触れることもない未知の手。

自己表現や自意識なんて言葉がぞっとするくらい、ただ自然に、そのままの姿形で十分完成された形。などと書いたら、まるで何かとくべつに神様に設計された生きもののようになってしまうけれど、ごく個人的に言って、私は人の手が好きである。
そしてごく一般的にいって、手や顔は、持ち主の性質なり体質なり心もちなりを映すと思う。

ほかの部分は何重にも布で覆われているのに、からだのなかで、手と顔だけが、例外的にむき出しであることと、それは関係があるように思う。


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