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名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第9回:『魔法のプリンセス ミンキーモモ』

 昔、フェナリナーサは誰でもいくことができる夢の国でした。
 ところが、フェナリナーサが千年の長い眠りにつくと、人々は次第に夢や希望をなくしてしまい、フェナリナーサもだんだんと、地球を離れていったのです。
 しかし、それを残念に思った王様は、フェナリナーサを、なんとか地球にもどしたいと思いました。
 広間ニアル王冠ニ十二個ノ宝石ガハマレバ、ふぇなりなーさハ地球ニモドリマス。
 王家の血を引くものが、誰かに夢と希望をもたせることができたら、その四回ごとに一個ずつ宝石がはまり、そして、その宝石が十二個はまれば、フェナリナーサはもとの場所にもどることができるのです。
 こうして、フェナリナーサの王女プリンセス・ミンキーモモの大冒険が始まりました……。

(『ロマンアルバム・エクストラ58 魔法のプリンセス ミンキーモモ』徳間書店、1983年、5頁)

はじめに:『ミンキーモモ』との出逢い

 1991年生まれの私にとって、湯山邦彦首藤剛志の名前はTVアニメ『ポケットモンスター』と密接に結びついている。もちろん、1997年の放送当時――幼少の砌――から二人の名前をはっきりと認識していたわけではない。一方で、アニメのタイトルこそ『アドバンスジェネレーション』、『ダイヤモンド&パール』、『ベストウィッシュ』、『XY』、『サン&ムーン』と時代に合わせて変わりながらも、変わらずにオープニングムービーに残り続けた「総監督 湯山邦彦」の文字列は知らず知らずのうちに私の脳裏に焼きついていた。他方で、2019年の夏に『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』というリメイク作品が劇場公開されるまで、私は脚本家・首藤剛志の名前を明確に意識するにはいたっていなかった。だから、表立って「私にとって、湯山邦彦・首藤剛志といえば『ポケットモンスター』です」と言うのは偽りを述べているようで気恥ずかしいのだが、この二人が携わっていた『ポケットモンスター』が私の原体験の一つであることは動かないので、このように書くことをご容赦いただきたい。そんな私が40年の時をこえて、湯山・首藤コンビの代表作として名高い『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1982~1983年、以下『ミンキーモモ』と略記)を見ることになるとは、なんとも不思議な巡り合わせに思える。
 とはいえ、私を『ミンキーモモ』の視聴に駆り立てた直接的な要因は、湯山・首藤コンビのネームバリューではなく、友人のP氏から提供を受けた漫画家・高遠るいとライター・前田久「スペシャル魔女っ子対談」(『月刊コミックフラッパー』2010年6月号所収)であった。この対談は「魔女っ子/魔法少女」というジャンルを考えるにあたって、「アイドル」および「変身ヒロイン」という隣接ジャンルとの境界を意識する必要性を指摘しつつ、各ジャンル内の簡便な見取り図を提示してくれる貴重な一里塚である。この対談のなかで、高遠は「魔法とアイドルが不可分だった、80年代のスタジオぴえろ作品から、魔法少女ものは『魔法らしきものをつかって戦うヒロインが出てくる作品』と、『魔法関係なくアイドルがでてくる作品』の二つに分かれて、魔法とアイドルがごっちゃになった作品は90年代に死んだというのがおおまかな流れ」と整理しつつ、1989年から1993年にかけてのアイドル/魔法少女アニメについて「『魔法のプリンセスミンキーモモ』とぴえろの4部作っていうスタンダードがあって、そこから似て非なるものをふわふわやってる感じだった」と回顧している。高遠・前田対談のなかで『ミンキーモモ』に言及されているのはこの一箇所だけだが、『ミンキーモモ』が時代を画した「ぴえろ魔法少女シリーズ4部作」の先駆けであったというニュアンスは伝わってくる。この対談を読んで、いわゆる「アイドル戦国時代」以降のアイドルアニメ(特に『アイカツ!』と『Wake Up, Girls!』)に固執する20代を過ごした自分としては、「魔法少女」が「アイドル」(および素人起用)と接点を持つ直前の輝きを見てみたい気持ちになった。要するに、私はアイドルアニメに対する理解を深めるための迂遠なプロセスとして『ミンキーモモ』を見始めたわけだが、およそ半年をかけて全63話を見終えるころには、当初の目的とは異なって『ミンキーモモ』自体に対する愛着を感じるようになっていた。
 ここで、前述の高遠・前田よりも一回り以上年長の世代に目をやると、彼らも『ミンキーモモ』をエポックメイキングな作品、または時代の変曲点と捉えていることが窺われる。アニメスタイル編集長の小黒祐一郎は、コラム「アニメ様365日」のなかで、「1982年当時において『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、『うる星やつら』と並ぶ話題作だった。女児向けの魔法少女ものであり、同時にアニメファンから圧倒的な人気を得た作品」であり、「瞬間風速ではあったが『ミンキーモモ』のフィーバーぶりは『うる星やつら』を越えていたと思う」と回顧しているし、ライターの小川びいもX(旧Twitter)で「81-82年の『うる星やつら』『ミンキーモモ』『マクロス』で『アニメ』のかたちが決まり、以降今日に至るまでその大枠は崩れていない」と発言している。

 こうした発言を踏まえると、『ミンキーモモ』を放送終了から40年後に取り上げるにあたっては、いわゆる「リアルタイム世代」の熱狂と興奮を再訪するところから始めて、2023年時点の後知恵コメントを付け加えるのが誠実な態度だと思う。しかし、当時のアニメ雑誌を網羅的に調査することは私の手に余るため、『ミンキーモモ』について現時点で私が書けるのは、わずか二冊の同人誌を前提としたインテリム・リポートにとどまる。そのことをあらかじめお断りしておく。

『ミンキーモモ』における「夢」について

 『ミンキーモモ』のシリーズ構成を務めた首藤は、2005年から2010年にかけて、WEBアニメスタイルで「シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家」(以下、「えーだば」と略記)と題したコラムを連載していた。首藤は「えーだば」第60回において『ミンキーモモ』の「同人誌関係の人気」の膨張に言及しているが、私はこのコラムを読んで思わず目を疑った。なぜなら、首藤が東京大学SF&アニメーション研究会(現・東京大学アニメーション研究会、以下「東大SFA」と略記)の作った同人誌を「同人誌の中で、一番驚いた」ものとして回顧していたからである。少し長くなるが、重要な箇所なので以下に引用する。

 同人誌の中で、一番驚いたのは、東大SF&アニメーション研究会の作った「ミンキーモモの本」だった。
 僕の家が、駒場東大の近くにあるせいもあってか、数人の東大生が来て、インタビューして行ったのである。
(中略)
 どんな事を聞かれるのかと戦々恐々としていたら、和気あいあいと数時間、『ミンキーモモ』に対して、他愛のない事を話してインタビューは、終わった。
 数ヶ月して、同人誌としては分厚いかなり立派な本が届いた。
 総論、各論とあり、僕のインタビューが、まるまる載っている。
 さらに、金春智子さんにもインタビューしたらしくて、首藤剛志と金春智子との夢に対する概念の違いを指摘した文章もある。
 これには、なるほどね……と、僕もいささかあきれながらも、ここまでやるかと……感心した。
 ともかく、真面目か不真面目か、分からないが、表面上は真面目な力作同人誌だった。
 こんな力作を作るぐらいなら、卒論の心配でもしたほうがいいのにと、こちらが心配になるような同人誌だった。
 あれから4分の1世紀、あの同人誌のメンバーが、青春の1ページとして、遠い記憶になり、今は社会の第一線で、活躍していることを、心から願っている。
 これらの同人誌で、僕の手元にあったもののほとんどは、今は小田原市立図書館に保管されている。
 先日、図書館に行ったが、まだ整理が行き届いておらず……なにしろ、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』以外の作品の脚本や資料も、ほとんど図書館に保管してもらったから、図書館側も整理が大変であろう。
 興味のある人は、図書館に連絡していって見てください。
 貸し出しはできないが、見せてはくれるはずである。

 もちろん、東大SFAが東大生を中心に構成されたサークルである以上、東大SFAのリアクションが標準的なアニメファンのそれと乖離した外れ値であって、サンプルとして不適切である可能性も否定できない。ただ、首藤がわざわざ「力作同人誌」として名指す程度には、東大SFAの同人誌の質は高いことが予想されたし、なにより面識なき大先輩との40年の時をこえた邂逅には奇縁を感じた。そこで、私は「えーだば」第60回のススメに従って、小田原市立中央図書館地域資料室に連絡を取り、首藤が寄贈した貴重資料を閲覧する手続きを進め、東大SFAの機関誌第7号『ELM STREET』(1982年12月1日発行、請求記号:M4-モモソ-217)および『Minky Momoの本』(1983年8月7日発行、請求記号:M4-モモソ-220)の二冊を現地に赴いて確認することにした。結論として、私の読みは外れておらず、『ミンキーモモ』に関する分析・評論の主要な論点はこの二冊の同人誌でほとんど出し尽くされているように見受けられたため、以下ではその内容を紹介しながら筆を進める。
 まず、『ELM STREET』には、『ミンキーモモ』のクライマックス直前に書かれた評論が一本だけ掲載されている。筆名“Innocent”(呼びにくいので以下「I氏」と呼称)による「ミンキー素敵ステッキどりみんぱ――天をも恐れぬ魔女っ子アニメ」と題されたこの評論(『ELM STREET』、28-33頁)は、当時の東大SFA周りの雰囲気をよく伝えるルポルタージュとしても読むことができ、たいへん興味深い。I氏は『ミンキーモモ』の画期性やユニークさを強調するため、熱量高く次のように書き始めている。

 少女アニメ界が積年の宿題であった「少女こけていしずむ」をついに発動させる。しかし、“たかが少女アニメ”が少女たちの手を離れて一人歩きし始めるなど、誰が予想し得たか?

(同書28頁)

皆さん、「ザブングル」だ、「うる星」だ、とかなりお忙しいようで、少女アニメなど白目の一隅に放り込む暇もない。「ララベル」に会って、少女アニメは「ルンルン」で終わったのだと信じてきた大多数の人々にとって、無理のないことだったのかもしれないが……

(同書28頁)

 I氏は、『ミンキーモモ』が「魔女っ子ものは、突き放して眺める話ではなく、少女たちにとって自分を同化していく話」という原則を表面的には踏襲しつつも、実際には「従来の魔女っ子ものとは根を異にする話」、すなわち「突き放して視るべき話」に踏み出していると評価する(同書29頁)。I氏は続けて次のように説明を補っている。

 個性と男ウケの塊のくせに、本来男ウケの要素でしかない“こけていしずむ”をあからさまに所有するモモ。彼女への同一化はその個性によって妨げられる。ところがこれを逆手に取って利用し、主人公の内面描写を押さえて、純粋なストーリー展開なりシチュエーションなりギャグなりを視る側に送り込む。視る側は、「モモ」を突き放して眺めることができる。

(同書30-31頁)

 こうした整理をしたうえで、I氏は『ミンキーモモ』の話題沸騰ぶりについて「キャラとテーマに男性が、シチュエーションに女性が飛びついてきた」と総括している(同書31頁)。この総括の正否はにわかに判断しかねるが、『ミンキーモモ』をある種の社会現象として捉える際に、頭の片隅に置いておきたい同時代の記述ではあるだろう。
 また、I氏はモモの二組の両親が話の根幹に大きくかかわらないため、「モモは“娘”ではなく“自由人”という性質が色濃い。モモはどちらの両親にも“友達づきあい”をする」と指摘している(同書31頁)。モモは人間の友人もいない孤独な「自律人」なのである(同書32頁)。そしてなにより、「夢と希望が失われたという相当悲惨な状況」にある地球にモモを投げ入れることによって、「“身のまわり話”からの脱却を試み、社会を意識しようとした」ことが革命的であった、とI氏は言う。最後に、I氏は「人間の失ってしまった“夢と希望”とは何か? 現代にファンタジーやメルヘンが存在するとは、人間の世の中がどうなることなのか? という問いに対する答えを着実に示していってほしい」と番組に対する要望を述べて、若干のコメントとともに文章を締め括っている(同書33頁)。
 他方で、『ELM STREET』の翌年に発行された『Minky Momoの本』は、首藤が「えーだば」第60回で「同人誌としては分厚いかなり立派な本」と評したとおり、『ミンキーモモ』に関する評論・イラスト・二次創作・スタッフインタビュー・全話リストを含む手書き120頁の同人誌である。『Minky Momoの本』は、実質的な最終回と言うべき衝撃的なエピソード「夢のフェナリナーサ」――魔法が使えなくなったモモがトラックにはねられて死んでしまう――の放送後に作られているだけあって、『ミンキーモモ』における「夢」の解釈に汲々としており、当時のアニメファンの熱量が「夢」をめぐるテーマ論に向けられていたことを窺わせる。とりわけ、『ミンキーモモ』という作品の特性や「夢」の解釈については、『Minky Momoの本』に掲載された評論を更新する水準の成果を出すのが難しいので、以下ではいくつかの評論を先行研究として紹介するにとどめる。
 まず、筆名「網城郁也」による評論「ミンキーモモのメタファー的解釈」では、「Part1で大人になるにつれてなくしてしまう子供の頃の純粋な心(夢)を見せ、Part2でその夢をいつまでも捨てるな、という願いを訴える――これが『ミンキーモモ』である」と端的に整理されている(『Minky Momoの本』、7頁)。また、同氏は別のコラムにおいて、首藤が携わった『まんが世界昔ばなし』と『ミンキーモモ』を対比して、「夢を忘れてしまった大人によって夢が阻害されている現状に対し、氏は被害妄想的とでも言えそうな感情を抱いていた」が、「この夢至上主義偏向に修正が加えられ、より充実してきたのが『ミンキーモモ』である」とも分析している(同書46頁)。数ある評論のなかで、白眉は筆名「わくい♡こうじ」による評論「私見・ミンキーモモのイイタイコト」である。同氏は『ミンキーモモ』における「夢」という言葉の二重性に着目し、「幻想としての夢」を夢i、「本当の夢」を夢tと呼んで峻別する。同氏いわく、「夢iの役割は、人々が夢tを保つための助けになる」が、「夢iにふけると人は往々にして夢tのためという本来の目的を忘れ、夢iの世界から帰ってこなくなり」、「夢iは現実の障害に対抗する武器から、現実逃避の手段へとなり下がって」しまう。その一方で、夢tも現実の障害/挫折もしくは実現/成就によって「必ず終焉を迎える運命」にある。だからこそ、「モモは地球の人々に夢tを与えることはできなかった」(同書21頁)。すなわち、「ハッピーティアーがはまり続けたのは、モモが良いことをしたからでも、夢や希望を与えたからでもなく、地球の人々が夢tを保ったから」であり(同書23頁)、夢i(フェナリナーサのようなおとぎ話の世界)を夢tを保つ助けとするか、現実逃避の手段とするかは一人一人の主体性に委ねられている。このように分析したうえで、同氏は『ミンキーモモ』のテーマは「夢tを保つことのすすめ」だと述べる(同書24頁)。そして、同氏は次のようなアクチュアルで力強い筆致で文章を結んでいる。

モモが自分の夢tをなくさずに大人になり、現実の障害に屈服せずに生きていくことができるなら、その時こそ、作品世界での現実においても、象徴的な意味においても、フェナリナーサが降りてくる、そんなふうに、私には思えます。

(同書26頁)

 以上紹介したような先行研究の成果に、私が付け加えることはほとんどない。しかし、いま虚心坦懐に『ミンキーモモ』を全話通して見てみると、前述の同人誌は『ミンキーモモ』を児童文学/世界名作劇場的な珠玉作として持ち上げすぎてはいないかという思いが湧き上がってくる。この疑念は、『ミンキーモモ』を代表するベストエピソードは何かという問いを立てたとき、さらに深まることになる。この点について、節を改めて議論する。

『ミンキーモモ』のベストエピソードを巡って

 前述の『Minky Momoの本』には、『ミンキーモモ』のベストエピソードをめぐる東大SFA内の人気投票結果が掲載されている。1983年当時の投票結果は以下のとおりである。

1位 #46 夢のフェナリナーサ
2位 #42 間違いだらけの大作戦
3位 #36 大いなる遺産
4位 #51 ラストアクション
5位 #30 ふるさと行きの宇宙船
6位 #26 妖魔が森の花嫁
7位 #8 婦人警官ってつらいのネ
8位 #43 いつか王子さまが
9位 #38 雪のめぐり逢い
10位 #28 激走タマゴレース
11位 #63 さよならは言わないで
12位 #53 お花畑を走る汽車
13位 #15 暴走列車が止まらない/#33 アンドロイドの恋/#35 夢見るダイヤモンド
16位 #9 森の音楽祭/#24 さすらいのユニコーン/#31 よみがえった伝説
19位 #29 UFOがやって来た/#39 突撃ミンキーママ/#41 お願いサンタクロース/#55 ラブ・アップルでもう一度
25位 #61 ラブ・アップルよ永遠に
30位 #3 走れスーパーライダー
31位 #34 地底の国のプリンセス/#50 リンゴに御用心

(『Minky Momoの本』、69頁)

 この結果は、たしかに『ミンキーモモ』傑作選と言うべき隙のない構成になってはいる。しかし、ドタバタギャグ回よりもPart1終盤やPart2に顕著に見られる情感あふれるエピソード――繊細な感情の機微を描いたり、喪失や破滅と結びついた切なさを強調したりするもの――が上位に食い込んでいるのはどうにもいただけない。この結果を、当時の東大生は意外にヒネておらず、シラケ世代的な感性に抗う可能性を秘めたものとして、真剣に『ミンキーモモ』を受け取っていたと解釈するか、ハシャいだ調子が支配的な時代にあえてしっとりしたものを選ぶことによって、「アニメって実はこんなにすごいんだ、大人の鑑賞にも堪えるものなんだ」と主張したかったにすぎないと解釈するかは難しいところだが、いずれにせよ前掲の選出が賢しいチョイスであることは論を俟たない。
 私はやはり、『ミンキーモモ』の魅力は一見底抜けに楽しいだけに見えて、実際には絶妙なバランス感覚によってコントロールされている点に認められると考えている。物語の進行上ほどよい(小黒に言わせれば「作りが粗い」)画面、名実ともに野心あふれる脚本、規定演技とアドリブを盛んに往復する声優陣といった要素のアンサンブルが『ミンキーモモ』の実直な明るさを際立たせている。とりわけ、主人公のモモ役を演じた小山茉美の「一人二役」が実にさっぱりとした好印象を与えている。実際、変身前(12歳)のモモはあどけない少女には聞こえない。小山の少し大人びた(といっても「ませた」感じではない)声の表情が、地球上の人間を遠巻きに俯瞰するフェナリナーサの王女――人間ならざる不思議な存在――というモモの設定に説得力を与えている。もっと簡潔に言えば、変身後(18歳)のモモが変身前(12歳)のモモに演技上フィードバックされているということだ。小山は疑いなく、『ミンキーモモ』というファーストペンギンを支えた功労者の一人である。なお、本稿ではこれ以上掘り下げられないが、小山に関しては『ニルスのふしぎな旅』、『Dr.スランプ アラレちゃん』、『戦国魔神ゴーショーグン』といった先行する作品からラインを引くことも可能であろう。
 話を戻すと、『ミンキーモモ』のバランス感覚を存分に味わうためには、切なさよりも愉快さや軽妙さを前面に打ち出した話――第39話「突撃ミンキーママ」のシンドブックに言わせれば「病気」のエピソード――を推すべきである(その意味では、前述の人気投票における第8話「婦人警官ってつらいのネ」と第28話「激走タマゴレース」の選出には首肯できる)。そこで、以下では『Minky Momoの本』では選ばれなかったエピソードのなかから、私なりのベストエピソード候補をいくつか挙げることにする。
 まず、いかにもイージーなチョイスかもしれないが、やはり第1話「ラブラブ・ミンキーモモ」は候補から外せない。主人公がいきなり「ミンキーモモ デビュー」と言って登場し、三匹のおともを召喚し、子供のいない夫婦を半ば洗脳して娘になりすまし、大盤振る舞いで二回も変身して牧場の危機を救う――というスピーディな展開のなかに、「『ミンキーモモ』ってどういうアニメ?」という問いに対する必要最小限の答えが詰め込まれている。この第1話を見て『ミンキーモモ』の大枠を理解できない人はいないし、次の話を見たくならない人もいない(そして、第2話「メガネでチャームアップ」を見て後悔する人もいない)。なお、ワルダー役を演じる滝口順平は、PlayStation用ゲーム『クラッシュ・バンディクー レーシング』では悪役エヌ・オキサイド(地球の存亡を賭けたレース対決を挑んでくる「宇宙最速」のエイリアン)の日本版声優を務めているが、牧場を賭けたレース(第1話)やF1レース(第14話「ゴールはいただき激走レーサー」)を牛耳るワルダーのコテコテの演技はエヌ・オキサイドのプロトタイプとしか言いようがなく、1991年生まれの『クラッシュ・バンディクー』シリーズファンとしては感慨もひとしおであった。
 第17話「おばけ屋敷でラブアタック」第19話「機械じかけのフェナリナーサ」は、いまの言葉でいう非モテ/オタク君をさっぱりと描いていて、『ミンキーモモ』における「おふざけ」の外延を画するエピソードである。第17話には、体の各部位が優れた女性を誘拐し、彼女たちをモデルに「嫁さん」を作る研究に勤しむマッドサイエンティストが登場する。このように文章で書くとややおぞましいが、実際の仕上がりは粘着質とは無縁の爽快さに満ちており、屋敷ごと爆発するオチはちょっと面白い。第19話は、12歳の天才プログラマー・ルーカスがモモに一目惚れするエピソードだが、モモがルーカスにあっさりとキスするシーンに顕著に見られるように、終始からっとしていて好ましい。この二つのエピソードは、気持ち悪く露悪的に描こうとすれば描ける属性のキャラクターを主軸に据えているだけに、かえって『ミンキーモモ』の嫌味のない基調を印象づけることに成功している。
 第23話「ころがりこんだ王様」は、とにかく無性に笑いたいときにオススメのドタバタ回だ。王妃様とドッシー(王妃様のペット)のじゃれつきに巻き込まれて、王様が地上に落下してくるという段階ですでに笑いの危険信号が点滅しているが、モモが「アダルトタッチで、普通の女の子になれ~!」というもはや職業でもなんでもない選択をしたり(なお、モモが「とびっきり美人」に変身する第37話「愛の空中ブランコ」は意外にも感動作なので候補からは除外した)、王様が銀行からタダでお金を取ってこようとして「ひょっとしてコレかもな」と狂人扱いされたり、第5話「ワルガキ王子大混戦」に続いて脚フェチぶりを披露したりと、おかしなシーンの奔流に押し流される快楽をとことん味わえる。挙句の果てには、「夫婦喧嘩は猿も食わない」、「犬も食わないだよ! 犬! 犬!」というシンドブック&モチャーの言葉遊びが飛び出し、ペンダントが光らなかったことで月の誕生石ハッピーティアが月遅れになってしまうというメタ発言も繰り出される。第23話は第28話「激走タマゴレース」と並んで、反則級の爆発的な面白さを誇る出色のエピソードと言える。
 第32話「大きすぎた訪問者」はドッシーの親戚の怪獣一家が登場する時点で刮目せよとしか言えないが、夫が妻より小さい人間サイズで、息子が大きいサイズという顛倒もベタに面白い。モモがハーバード、ケンブリッジ、オックスフォード、東大、どこかの駅前大学を出たという設定の学者に変身するのも、世間的に最難関大学と目されている大学を列挙しておけばよかろうというテキトーさ/おおらかさが笑いを誘う。息子の怪獣・ジミー役には『超時空要塞マクロス』でシャミー役を演じた室井深雪が配されており、「ツンツンしちゃうから」という台詞に興奮していた「おたく」の皆さんも楽しめること請け合いである。
 第52話「モチャーとペンギン」は、子供を亡くしてしまったママさんペンギンを元気づけるため、モチャーにボディペインティングを施して子ペンギンのふりをさせるという無茶苦茶なエピソードだが、なんといっても見どころは終盤の空飛ぶペンギンの群れである。モチャー扮する「木登りペンギン」を狙うインチキ動物ブローカーを、魔法で空を飛べるようになったペンギンたちが撃退する絵面は強烈であり、最終回まで見たうえで改めて考えてみると、人間の赤ん坊に生まれ変わったモモの見ている夢がこれでいいのかと苦笑せざるをえない。

『ミンキーモモ』の魅力とはなんだったのか

 こうして書き出してみると、『ミンキーモモ』は構成の妙が光る楽しいオムニバス作品だったという総評のほうが、私にとっては腑に落ちる。『ミンキーモモ』第46話の衝撃(および第63話の力業による収束)ばかりに気を取られるのは、ちょうど『THE IDEON 発動篇』の双絶なるインパクトばかりを強調して、TVアニメ『伝説巨神イデオン』の「散文的」な冗長さを無視するのと似たようなものだ。『ミンキーモモ』第46話における「夢や希望は自分が持つものでしょ? 人からもらうものでも、人にあげるものでもないわ」というモモの言葉が深みをもって視聴者に響くのは、そこにいたるまでの助走期間に充満した楽しげなムードとの落差を感じさせるからである。したがって、繰り返しになるがこれは構成の妙とバランス感覚――換言すれば「良識」――の勝利と言うべきである。
 とはいえ、『ミンキーモモ』を児童文学/世界名作劇場的な珠玉作のように持ち上げ、錦の御旗にしようとした当時のアニメファンの気持ちもわからなくはない。『ミンキーモモ』は前述した「良識」に支えられており、それは安心感に直結している。あまりスタッフインタビューを真に受けるのも考えものだが、この「良識」は監督およびシリーズ構成の発言にも見て取ることができる。ここで、『ロマンアルバム・エクストラ58 魔法のプリンセス ミンキーモモ』(徳間書店、1983年)に掲載された「突撃ミンキーモモ座談会」を参照すると、スポンサー側の番組打ち切り判断を受けたモモの交通事故死について、湯山は「とにかく、嘘にならないように……死を美化するような形にしちゃいけない」という意識を持っていたと発言しており、首藤も「生まれかわるってことを見せるのは一種の自殺幇助になるんじゃないか」、「生まれかわってきたあとのモモがすばらしければすばらしいほど、死への憧れを子どもが持ちたがるんじゃないか」と逡巡していたことを明かしている(同書129頁)。首藤は「えーだば」第58回においても、「その当時、現実に死にたがる子が増えていて、現実逃避のため子供たちが自殺するのを奨励するように見えたら、困るからだ」と回顧しており、彼の発言には一貫性が認められる。
 こうした発言は、たとえよそ行きの綺麗事だったとしても、「良識」ある職業人のコメントであり、安心感をもって受け止めることができる。この安心感ないし信頼感が、『ミンキーモモ』という作品を熱烈に支持してよいという思いを起こさせるのもたしかだ。しかし、『ミンキーモモ』のスタビリティは実際には、無軌道への欲望と「良識」という枷とのあいだの緊張関係そのものであり、その葛藤こそ「大人になったら何になる」という問いへの暫定的な答えとも言える。そうであるならば、説教臭いメッセージをコーティングする「照れ隠し」の部分を評価することこそ、『ミンキーモモ』のスタティックでヴァーチャルなメッセージを現実に持ち帰り、変革を引き起こすダイナミックなアクチュアリティとして喚起するきっかけになるはずだ。何となれば、大切なのは説教そのものではなく、説教など自分には分不相応だと知りつつも、与えられた役割を全うすべく、説教をせざるをえない局面における居心地の悪さを理解することなのだから。そうした理解を経て、過去の大人たちも同じような居心地の悪さを感じていたのではないか――と想像できるようになれば、おのずから『ミンキーモモ』を見る目も変わってくるはずである。

おわりに:その後の歴史の皮肉について

 男女雇用機会均等法という単語が社会科の教科書に載ってから、どのくらいの時間が経ったのだろう。首藤が「えーだば」第49回において、「空モモ(海モモではない)の放送された頃は、本来男性のものだった職場への、女性の進出が盛んになりつつあり、ミンキーモモが男性的な職業のプロフェッショナルになるのにも抵抗がなくなっていた。/ミンキーモモが、どんな職業の大人に変身しようとかまわなく見えるのは、時代が追い風だったからとも言えると思う」と述べているように、『ミンキーモモ』は男女雇用機会均等法制定前夜のアニメであった。この時期に、少女が魔法の力で多種多様な職業に従事する大人の女性に変身するというアニメが放送されていたことは、前述の「スペシャル魔女っ子対談」における「『女の子+魔法』という概念には、ウーマンリブ的な意味があった」という高遠の整理の例証にもなるだろう。
 しかし、2023年6月21日に世界経済フォーラム(World Economic Forum)が公表した“Global Gender Gap Report”の2023年版において、日本のジェンダーギャップ指数は146か国中125位と過去最低の記録を打ち立てている(詳細は下掲記事を参照)。いわゆる「野球回」である第25話「がんばれミラクルズ」において、モモは「大事なことは、女でも男でも同じように野球ができるってことを、みんなにわからせることだと思うの」と言っていたが、残念なことに、この台詞はいまだに古びていないように見受けられる。結局、フェナリナーサが地球に降りてくるのを阻害しているのは、『ミンキーモモ』を過去に葬り去ることなく不朽の名作にとどまらせ続けてしまう、男性側の政治的保守性なのである。

 また、首藤は同じく「えーだば」第49回において、「後に『ピーターパン・シンドローム』と呼ばれる甘ったれた感情が流行語になる以前から、子供たちの間には、大人になりたくないという感情が、すでに広まっていた。/1970年代から80年代に、もうすでにフリーターとかニートとか言われる人たちの種は、充分まかれていたのである。/だからこそ、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、そんな子供たちに、大人になる事への期待を持たせたかった」とも書いている。ところが皮肉なことに、首藤は『ミンキーモモ』の放送終了から2年後、OVA『Fairy Princess Minky Momo 夢の中の輪舞ロンド(1985年、以下『夢の中の輪舞』と略記)の脚本を担当することになる。
 『夢の中の輪舞』は「ピーターパン・シンドローム」に対する批判と諦念が入り混じった複雑な味わいの作品であり、「大人になりたくない子供の国」を取り仕切る永遠の青年・ペーター(着想源は当然ピーターパンであろう)とモモの対話を主軸に物語が展開される。「子供の国」には子供のままでいられるエネルギーが充満しており、このエネルギーを浴びた大人はたちまち頭身が縮んで子供に戻ってしまう。このエネルギーは大人でいることに疲れ、大人でいたくないと思った大人から生み出されている。「子供の国」に消えたパパとママを救うため、モモは三匹のおともを連れて「子供の国」へ向かう。しかし、人間は必ず大人になりたくないと思う日が来るが、人間ではなくフェナリナーサの王女であるモモは大人になる力を秘めているため、「子供の国」への入国を拒否されてしまう。モモは一計を案じ(というより頓知を働かせ)、魔法で大人に変身することによって、子供に戻る力しかない状態で「子供の国」に忍び込む。そこでペーターと対峙したモモは、彼と次のようなやりとりを繰り広げる。

ペーター 大人はみんな自分のことしか考えなくて、争いや戦争ばっか。
モモ   でも、あたしたちが大人になったら、そんな世界を作らないようにできるかもしれない。
ペーター 大人になれば、そんな気持ちも忘れてしまう。子供の気持ちを忘れずにいるためには、子供で居続けるよりないのさ。
モモ   それ、なんか変だな。何かから逃げて、閉じこもっちゃうのって、どっか、好きじゃないんだ……。

 『夢の中の輪舞』の重要な点は、ペーターとモモの立場が最後まで平行線を辿り、一方が他方を論破することなく幕切れを迎える点だ。ペーターは永遠の子供の世界を再建するため、また別の宇宙へと飛び去っていき、モモはそれを複雑な表情で見つめることしかできない。また、『夢の中の輪舞』の終盤において、子供のままでいられるエネルギーは、宇宙空間に軍事衛星を打ち上げ、相互に軍拡を続ける世界各国から兵士を若返らせる不老不死の力として狙われることになる。「子供の国」が世界各国からの派兵を受け、不似合いにメルヘンチックなBGMとともにミサイル攻撃を浴びるなか、モモは右往左往することしかできない。「ピーターパン・シンドローム」すら狡猾な大人たちの政争の具にされてしまい、魔法の力も問題の解決に寄与することができないという構図は、たとえ劇中で「子供の国」の兵器が世界各国の軍隊を無力化したとしても、きわめて冷徹なつくりとしか言いようがない。『夢の中の輪舞』において、「子供だけでなく、大人が見ても通用するファンタジー」を作りたいという首藤の目標(「えーだば」第50回)は明確に達成されたと言えるだろう。ただし、それは『ミンキーモモ』を特徴づけていた「照れ隠し」の明るさをうっちゃるという一種の禁じ手を伴ったものであった。この点に第2次アニメブーム終焉の余波を見ることができるかどうかは、今後の検討課題としたい。

 次回更新は2023年12月、主題は『魔法の天使クリィミーマミ』を予定している。

(2023年12月24日追記)
当初は2023年12月に『魔法の天使クリィミーマミ』を取り上げる予定でしたが、筆者の準備不足のため、2024年3月以降に更新を延期します。
恐れ入りますが、よろしくお願いします。

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参考文献

『ロマンアルバム・エクストラ58 魔法のプリンセス ミンキーモモ』徳間書店、1983年。

『月刊コミックフラッパー』2010年6月号、メディアファクトリー、2010年。

東京大学SF&アニメーション研究会『ELM STREET』、1982年(同人誌、小田原市立中央図書館地域資料室所蔵)。

東京大学SF&アニメーション研究会『Minky Momoの本』、1983年(同人誌、小田原市立中央図書館地域資料室所蔵)。

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