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書いてみたいこと。

一応、昨日で終わりをみた「創作について」シリーズ。

さっそく、今日は何を書こうかに困り考える時間。

頭の中では、床にばら撒かれたビー玉あるいはおはじきのように書きたいことや書けそうなことのカケラが散らばっていて、それらをどうしてまとめるか、どこを摘まみ取ってくるか。iPadの一面に表示されるnoteの投稿画面を見つめながら、むずかしい顔をしている。(無駄に険しい顔をすることには定評がある)

そこには「これは始めると長くなりそうだからなぁ」「これは書くの難しそうだ」「大した話にならなそうだぞ」なんて打算めいた想いももちろん過ぎるのであって、そうこうしているうちに数十分経ってしまったものだから、諦めるようにひとまず、こうしてキーボードを叩き始めることにした。

今日は、あらためて僕がこれからどんなことを書いてみたいのか、そんなことを書くことにしよう。そうしよう。これは今日書くテーマを絞りきれなかったことからの逃亡ではない、きっとそうだと信じて。よし。

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「誰もが日常にストーリーを携えて」

という言葉があります。

あります、と書いているけど、これは僕自身の言葉です(ごめんなさい)。数年前、自身のブログタイトルに付した言葉。

その記事では、とある商品を僕が「欲しい」と思ってから実際に購入するまでの、おそらく誰にでもある日常を書いた。ただそこで、他者にすすんで共有したいと思えるかは微妙な程度の、とてもパーソナルなドキドキ・ワクワクを味わう経験をしました。そのことを少し丁寧に書いてみたんです。

「XXを買った」「XXをした」「XXへ行った」...こういう事実は、多くの人が共有することができる。たとえば、とあるパン屋さんでメロンパンが10個売れたら、それは10人の人達にとって共通の経験だ(おひとり様1点限り)。そしてそれ自体はあえて取り上げる類のものではない、いたって日常的なイベント。

「この前、たまたまあのお店でメロンパンを買ったんです」「あぁ、私もちょうどこの前買いました。おいしいですよね。私の母が好きで」「いいですねぇ、わたし達もこの前ひさしぶりに食べたんですよ」と。

...けれど10人の「あのお店でメロンパンを買った」という出来事をそれぞれ、そこから丁寧にひも解いてみると、かならずそこには10通りのストーリーが存在します。

営業の途中に小腹を満たしたくて、偶然に立ち寄ったサラリーマン。入院している母に大好物を、食べられなくなってしまう前に…とやってきた娘さん。30年ぶりに通りかかり、2人で初めて食べた味をと店に吸い込まれてゆく初老の夫婦。

エトセトラ、エトセトラ。

けっして外に向けて紹介されるようなものではないけれど、この世界に生きる一人ひとりが、日々の中でたしかに綴るストーリー。けっして語られることのない物語。誰もが(もちろん、あなたも)そうしたものを胸に携えて生きている、そんな事実をふと愛おしく感じ、僕はあの言葉を綴りました。

この場では、出来るだけそうした日常のストーリーを書けたらいいなと思う。大それたことを云おうと思うほど手は止まってしまうし、それより日常のふとしたことに目を向け、そこで自身が何を感じ思ったのかを意識の俎上に上げ、それを言葉として書き表すこと。そんな試みこそ、有意義なものであると信じたい。

本日は、この辺りで。

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