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わかりたい、すぐに



我社の異動が発表された。
私のグループからは誰も異動がないと思っていたが、私も含め今年度赴任した3人のうち私以外の2人が異動することになった。
配属1年目の異動は我社ではあまりないケースらしく、グループ内では今日は予想だにしなかった異動による業務引き継ぎで皆どこか慌ただしく動き回っていたように思う。
ある人はきたる移動に備えて資料の集約化を行い、ある人は残った仕事を一気に片そうと乱雑に散らばった紙に埋もれて血眼で液晶とふたりの世界を広げていた。
ぼくははじめてこのような異様な雰囲気を経験した。
あっこれが所謂年度末というやつか。

妙に納得した。
20も30も上の大の大人がてんやわんやになりながら、パンパンで今にも破裂しそうなスーツケースにさらに物をこさえようとするように、はたまた通勤ラッシュ時の東西線のすし詰めになる乗客を電車内に押し込もうとするように、仕事に無理やり蓋をする光景はなんだか滑稽にも思えてくる。
まあ自分も2年後にはそうなってるんだろうけど。

そんな光景を横目で流しつつ、自分の業務に没頭していると夕方4時、ちょうどお腹がすいたのでコンビニで買ったバウムクーヘンを食べる。
いつもこの時間は仕事をしながらおにぎりやお菓子を食べている、が何も悪態をつかれたり注意されたことはないのでなんだかんだで我社はゆるいんだろう。むしろ今日もなんか食うてますやん!とネタにされる始末である。
外からは春休みに突入したと思われる高校生が奏でるトロンボーンの少し上ずったロングトーンが聴こえる。
あまおう苺のバウムクーヘンと書かれた袋を破り、鼻に甘酸っぱい香りがしたと思えば、先ほどまで書類の山に覆われていた隣の席の上司が話しかけてきた。

俺異動やねんなあ〜
その上司の異動は知っていたが、なんだか取り立てて聞くのも変かなと思っていた。
そうなんですね〜大変ですね。
と返した。
そういえば1年で異動なんですね、希望されたんですか?
思わず続けて聞いた。
いや、俺次昇格するからそのポストに収まるのがたまたまその課やってん。
表情はどこかかすみがかってるように見えた。
昇格って、主査ですよね?おめでとうございます!
咄嗟に私は祝福した。
これは咄嗟に出たが、割と本心で祝っていた。
彼は勤務態度自体はあまり良くないが、とてもフランクで仕事も理的で流れるようにこなすので、その流麗さを単純に尊敬していたからだ。
だが、その上司は昇格が気にいらないようだった。

数十年もこの仕事やってたら昇格なんか勝手にすんねん。
ただ、俺は主査になって給料ちょびっとしか増えへんのに責任だけガバッと増えんの嫌やねん。
俺は今のポストでおりたかったんよ。

私は咄嗟におめでとうございますと言ったことを後悔した。
その上司は割と真剣に昇格することを良く思っていないようだった。

いや、でも、お子さんとかご家族は昇任したって言ったら喜びはるんじゃないですか___
ぼくはなんて良くない言葉を返してしまったんだろうか。
その上司は子煩悩なところが垣間見えるのでお子さんを話のタネに出せばいいだろうと安直な選択をしてしまった。

たしかにそうかもせんけど、主査なったら毎日遅い時間まで残らなあかんようなるからね。家族と過ごす時間も減るからね。別に今のままでよかってん。

そうか。

そうなんだよなあ。

ぼくは何一つわかってなかった。
ぼくの頭のなかでは、長年仕事をこなしていって経験や能力などなど何であれそれが周りから認められて評価として(報酬として)実際に目に見える形で現れればそれは均しく「良い事」なんだと思い込んでいた。一般的にはそうなのかもしれない。
ただ、それはあくまで、
独身のぼくが
20前半のぼくが
新卒のぼくが
異動未経験のぼくが
主事(一番下っ端)のぼくが
「良い事」だと思っていたにすぎない。

それがたちまちその上司の立場になれば、昇格が良い事ではなくむしろ安定していた生活のバランスを揺るがす材料になりかねないということだと咄嗟に気づけなかった。
自分の刷り込みであたかもそれが他人にも当て嵌るかのような考え方で話してしまった。

これは今日体験したちっぽけな一例に過ぎないが、自分や他者が同じようなケースに遭うことはあるだろうし、さらにはこうしたケースに気づかないこともあると思う。
自分の価値観が普通だと思い込んで他者にもその価値観を当て嵌めて捉えると他者を知らず知らずのうちに精神的に蝕んでしまう可能性。

そんな大げさな、、、と感じるかもしれないが、対人コミュニケーションの価値観の相違からくる心の違和感は、互いに、あるいはどちらか一方的に精神的に多大なる負荷をかけてしまう。
そうやって大きなトラブルに発展したり、知らずのうちに心を患ってしまったり、人間関係が希薄になってしまったり、と様々な問題の原因になりうる。


わかりたい、すぐに。

それは百人いれば百人の考えがあるようにすぐさま自分自身に緊縛されたステレオタイプを取っ払うのは一概には難しいかもしれない。ただそれを他人に押し付けない、自分の考えを相手に圧力としてぶつけないようにする配慮、思慮深さを持つことはできるのではないか___



あと数日後に異動を迎える上司との会話の一節でそんなことをふと思った。

かすみがかってるように感じたその上司の顔には再びいつものにこやかな顔が戻っていた。
わずか数分前に誰かが開けたと思われる窓からは無数の金管楽器の震える音とともに春の匂いがした。

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