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#422 Whataboutismをなくす教育を

 以前、ラジオでもお話した内容なのですが、

 現代では子どもたちは学校の授業に頼らずともyoutubeなどを用いて教科・科目の学習を進めることができるようになりました。

 それに伴い『youtubeで見ればわかるので先生の授業は聞きません』と言う児童・生徒もいるようです。

 先日、私の元同僚で友人と話す機会がありました。私は、授業を児童・生徒が聞かないのは本質的には教員の授業が悪いと思っていました。児童・生徒が聞かないのが悪いと教員側が考えてしまったら、私の成長は止まってしまう。児童・生徒が授業を聞かない原因を分析し、より良い授業を展開することが教員業務であり、その職業的責務であると考えていたからです。一方、同僚は、児童・生徒の方に原因があると説きます。教員の授業が良いなからと言って授業を受けること自体を放棄することは、その中で得られるプラスを全て無視することであり、その行為は教員に対して失礼であると共に、何より自分自身の学びを放棄することに繋がるからだと言っていました。

 私と友人の意見はどちらも正しいと感じたのです。なぜなら授業は相互的なもの。児童・生徒が授業を聴かない原因を全て彼らに負わせることも、授業が悪いからと言って、授業放棄を正当化する児童・生徒も、どちらも結局、「責任転嫁」になる。相手が悪いから、自分の行動を正当化することでは、本質的解決には繋がらないことを再認識する良い機会となったような気がします。

『「アメリカの指摘をしても日本のジェンダー問題はなくならない」誹謗中傷されたハーバード大医師が伝える“論理のねじれ”』の記事を見つけました。

 記事の中では、日本の国立大学医学部を卒業後、現在はハーバード大学医学部准教授(小児精神科医)として働いている内田舞氏が、コロナワクチンに関する情報を発信した時に受けた誹謗中傷を紹介。内田氏はその誹謗中傷の根底には、『Whataboutism(ホワットアバウティズム)=「そっちこそどうなんだ主義」・「おまえだって論法」』があると述べています。

 子どもが「早く寝なさい」と言われて「ママとパパはなんで起きてるの?」と文句を言ったり、部屋が散らかっていることを指摘されて「そういうママはお皿の洗い方が雑」と親の家事についてケチを付け始めたり、「そういうあなたはどうなのよ?」という言葉が飛ぶ光景は家族の会話でもよく見られます。アメリカでWhataboutismという言葉が主流メディアで使われるようになったのは冷戦中で、旧ソ連で国家を批判したジャーナリストが逮捕されるといった非人道的な政策が西側諸国から非難される度に、旧ソ連が「アメリカでは黒人が殺されているじゃないか」などとアメリカの問題に論点をずらすコメントを出したことがきっかけでした。現実にはアメリカの人種差別も、旧ソ連での言論の規制も問題であるはずなのに、「あなたの国はどうなの?」と相手国の問題を指摘することで、自国の問題を「よし」あるいは「仕方なし」としてしまうねじれた論法、これがWhataboutismです。また、例えば動物愛護や環境保護のために菜食主義を心掛けている人に対して「動物実験を経て人間に適用された医療は受けるくせに」「飛行機に乗るくせに」と「あれはどうなの? これはどうなの?」と相手の主義主張が100%完璧に実行されていないことを批判するのもWhataboutismです。実際は100%でなくとも動物や環境のために個人個人ができる限りのことを行うのは奨励されるべきことですが、100%ではないことを突いて個人の努力や選択を揶揄して、「菜食主義の意義などない」という錯覚を生じさせるようなWhataboutismもあるのです。

 人は誰でも自分自身を「否定」されることに対してポジティブな気持ちを持つことはできない。信頼関係が十分に構築されていない相手から自分の過ちなどを指摘されると嫌な気持ちになるのは当然です。一方、何かしらの問題の責任を他者に転嫁しても、何の解決にもならない。お互いが良いより形を模索するという理念を共有して、自分ができることを精一杯やるしかないのです。

 学校教育の中でも、whataboutismが蔓延しているように思う。そこには教員と生徒の無意識的な対立構造があり、そこからお互いを尊重できない関係性があるのかもしれません。


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