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今日、2023年3月11日。
あの日から12年が経ちました。
12年というと、暦で言うと一周回ったというような感じでしょうか。

あの日から止まってしまった時計。
命の重みを感じます。

あの日を境に、変わっていったこと。
動き始めたこと。
未来へ向かい、進もうとしていること。




12年前に時を戻し、
ぼくの見てきた3.11をいま、ここに、記録しておこうと思います。
時代のアーカイブのひとつにでもなったら良いなと思います。


12年前の今日、ぼくは消防局の本庁舎で仕事をしていました。
指令センターから内線が入り、「とんでもない地震があった」との連絡。
テレビを付けてみると、かなりの巨大地震。

たしか、数日前にも同じような場所で大きな地震があったよな。
あのときも津波警報出たよねって話していました。

同様に津波警報?大津波警報?が発令されました。
数日前もこんなん言いながらどうってことなかったやんって言いながら、仕事に戻ったりテレビ見たり、そんな感じでした。

すると、とてつもない大津波が街を襲っていく映像が・・・・。

ヤバイヤバイ!!この人!!早く逃げろ!!!!!

津波に呑まれる前に、別の場所の映像に切り替わります。報道規制のひとつでしょう。
「今の人、助からんやろうな・・・」
映画のワンシーンのような強烈な映像。
ただごとでは無いことを確認しました。


阪神大震災以来、全国の消防において、法律に基づく『緊急消防援助隊』が編成され、出動することとなっています。

色んな枠組みや出動基準がややこしいのですが、(今はもっとややこしい)、略して『緊援隊』が出動する基準には間違いなく当てはまります。

しかし、
当時の緊援隊が想定していたのは、今で言う『南海トラフ地震』と『首都直下地震』の想定です。

北九州市のぼくたちは、関西、よく行って名古屋あたりまでが守備範囲です。
首都直下であれば、ギリギリ行くか行かないか、というような想定でした。
はるかに東、はるかに北の東北に、北九州市にお呼びがかかることは無いんじゃないか。いや、そもそも想定さえしていません。
でも、「準備しておこう」っていう指示でした。

この日は金曜日でした。
消防局に連絡要員のシフトが敷かれ、土日も詰めていました。

次々と報道されるとんでもない惨事を、ぼくは家でテレビ越しに見つめていました。
土日のうちに、ヘリコプターの航空隊が現地へ行くとの連絡が共有されました。
陸上部隊は、基本的には関西まで。
部隊が足りない場合は『本州まで』。
つまり、目と鼻の先ですが、山口県の部隊までの要請になるだろうとの情報でした。

月曜日に出勤して、仕事をしていると一本の電話から事態が急変しました。
『九州の部隊も呼ばれた』

あらかじめ準備していた先輩方が、急展開で準備を始めます。
隊を編成していくなかで、もう1人・・・・
誰が行く?誰を行かせる?

当時、部内で一番年下だったぼく。
業務の専門としてもちょっと質が違う課でしたが、色んな課から行った方が良いという選択になりました。
ぼくの所属長が「入門くん行ける?」と聞かれ、「はい、行かせてください!」と咄嗟に答えてしまいました。

でも、ぼくは事前編成にも入っていなかったし、正直言って、心の準備もできてませんでした。その返答する時間の、たった数秒だったと思いますが、とてつもなくスローモーションのように長い『間』だったことを覚えています。

心の準備もできてなければ、荷物の準備もできてないです。
急いで家に戻り、準備をします。
現地はまだまだ冬です。寒さが厳しい。
食べるものも何もない。全て準備していくのが基本です。
何日行って、何日後に帰れるのか分からない。
ましてや、家族にも、ろくに話ができていない。妻は勤務中で連絡がとれません。メールだけ入れておきました。

消防局に戻り、まだ入職5年目だったぼくは、制服や手袋を少ししか持っていませんでした。
色んな大先輩の皆さんが、ほら、これ持って行けって、色々と貸してくれました。

いま思い返すと、急にこの部隊の一員に編成していただいたことで、その後のぼくの人生が全然違っているように感じます。

先に飛び立った航空隊8人。
陸上部隊は、福岡県指揮隊4人、機動指揮班4人、救助隊5人、後方支援隊3人、活動補助隊2人の5隊18人。
1,000人いる消防局において、その一員になれたことを誇りに思います。


ちなみに、ぼくの役割は活動補助隊。
部隊全体のバックアップと、県や消防局との情報をやりとりして調整する役割です。
活動の記録なども撮っていきました。

消防局内で、出動隊員が揃います。
緊張感の張りつめたなか、出動を見送っていただきました。
本州の入り口、めかりPAで、福岡県の全ての部隊が揃います。

政令市であるぼくたち北九州市と、福岡市の2市が全体をリードします。
調整なども大変です。


何十台もの消防車が揃って出発します。
何度も通ってきた関門橋です。

「あぁ、ホントに行くんだな」とハンドルを握りながら感じたのを鮮明に覚えています。
なんだか戦場に行くような気持ちで。
余震や二次災害もあるかもしれません。
バタバタと家を出てきて、ホントに無事に帰れるんだろうか。もう戻れない旅路にスタートするような、そんな怖い気持ちがありました。
でも、現地の人は助けを待ってるはずだ、一刻も早く現地へ。
命を救うため。


でも、とてもデカイ特殊車両ばかりです。なかなか進みません。
この日は、岡山までしか行けませんでした。
体育館のようなところに雑魚寝したように記憶しています。
色んな調整があり、やっと休めたのは深夜でした。

翌朝、早くから動き出します。
東へ東へ、陸路で向かいます。
この日は、静岡までしか行けませんでした。

静岡の消防学校に泊めていただきました。
進むスピードが遅いというのもありますが、あまり早く行っても、現地の受入れ状況が整っていない。どこでどんな被害があっているのか、国でも全容が掴めていないという感じでした。行き先さえ決まらず走っていました。

もちろん、各種報道なども見ていました。
現地は津波により水浸しとの情報です。そして寒い。

全体の部隊を抜け出して、静岡のホームセンターに立ち寄りました。
お目当ては、胴長と言うんでしょうか、水に浸かっても活動できる装備と、防寒着です。
ありったけのものを買い占めて、『北九州市消防局』と書いた赤い車に乗り込もうとしたとき、
若いお兄さんから声をかけられました。

『九州から来られたんですか!?東北に行くんでしょ?オレの分までよろしくお願いします!!!』って何本もの缶コーヒーを袋いっぱいに詰めて渡してくれました。

見ず知らずのぼくたちに、自分の思いを託してくれたこのお兄さん。
ぼくはようやく事の本質を見たように思いました。

1,000人の消防局の仲間たち。
全国で心配してテレビを見ている国民。
みんなの思いを受け取って、ぼくたちが現地に行くんだ。
みんなの思いを、ぼくたちに託されてるんだって。

自分の身を案じて、自分本位に考えていたところもあったと思います。
このことで初めて覚悟が固まったように思いました。


この夜、静岡の消防学校で、震度6の地震に遭いました。
当時の言葉で『迅速出動』の基準に合致するほどの規模です。
つまり、「呼ばれなくても直ちに出動する」というものです。

東北に向かう途中、静岡で、静岡の地震にも出動しました。


翌日に、現地入りすることになりますが、
実は静岡では立ち往生していました。

原発が爆発したためです。
当時、詳細不明の大爆発を起こしました。
色んな憶測が飛び交っていました。
東京から先は放射能汚染されているので近づくなという情報もありました。

浜松SAで、緊急車両が渋滞しました。
とても大きなSAですが、全部の駐車場を埋めるほどの、消防車両と自衛隊車両が集結していました。

更に東へ向かう頃、
車のエアコンは、外気ではなく内気にするように、そして車内でもマスクを着用するように統一しました。
またひとつ得体の知れない敵が現れ、未知の世界に進んでいくようでした。

宮城県の消防学校まで前進させていただき、現地入りしました。
九州を出て、現地に着くまで3泊4日。ようやく活動開始です。
このとき、既に発災から1週間が経っていました。

東京から北の高速道路は緊急車両しか通れませんでした。
だんだんとヒビが入っていく、誰もいない道路をひた走っていきました。

被災地に近づくにつれ、被害が大きくなっていくものの、それほどの大災害は起きていないように感じました。

現地に着き、現地の消防署員の案内で、被災地に着きました。

各種の報道で見てきたもの同様に、いやそれ以上に、ガレキの山です。
とんでもないところに来たと感じました。
「ここが現場か・・・」と思いました。

署員の方が言います。
「現場はこの先です」

えっ、ここじゃないの?まだ先?
そのガレキの向こう側。
報道のカメラが入っていない危険地帯。
ここが本当の現場でした。

ガレキの向こう側の世界は、『何にもない場所』でした。

眼を疑うほど、違う世界でした。
ガレキの山の向こうは、ただただ水びたしの、だだっ広い水田のような景色でした。

腰の高さぐらいまで水があり、海はどこかと見渡すと、2キロほど先に、防波堤が見えました。

この頃、自衛隊が主に通るルートを開通してくださっていました。

何もない水浸しの場所で、現地の署員さんに聞きました。
ここは何の場所だったんですか?

「ここは住宅街でした」

・・・・

衝撃の言葉に、状況が掴めませんでした。
ぼくはてっきり、ここは田んぼですって言うんだろうと思っていました。
住宅街なんて影も形もありません。

でも、よく見てみると、
ほんの20センチほどの高さで、家の『基礎』が点々と残っています。

それらがよく見てみると、道路に沿って、基礎の跡が並んでいます。

足元から、根こそぎ、津波に削り取られ、先ほどみた、ガレキの山を形成し、積み上がったのでしょう。
言葉にならない自然の猛威を感じました。

所々に木や、丘や、頑丈な?何かの建物?にガレキが引っかかるようにして、山になっています。

緊援隊の役割は人命救助です。
捜索できていない場所を確認し、それぞれの消防本部で担当を分けて捜索します。

「誰かいませんかー!?」
「聞こえますかー!?」

何の応答も無い、場所に救助隊員の声が響き渡ります。

冒頭の写真は、現地入りした地域の記録をネット上から引用させていただいたものです。


先に入った航空隊との連絡のため、しばし部隊を離れることがありました。

防波堤のところまで行ってみて、その猛威に改めて呆然としました。

10mぐらいある防波堤です。
建物でいうと3~4階建てぐらいでしょうか。

右から左まで、見えなくなるほど延々と続く壁です。
向こう側の海なんて見えません。

その巨大な壁が、『歯抜け型』に、ところどころ壊されているんです。
この壁の上を行く津波が来たそうです。

その威力を想像すると、震えあがりました。


ぼくは、後方支援が任務ですから、直接救助活動に携わることは、あまりありませんでしたが、
13人だったと思います。
ウチの部隊で発見しました。

水路に引っかかった車、ひっくり返っています。
車内を捜索して発見しました。

ガレキの山がありました、登ってみると、そこに居ました。

木に色々な物が引っかかっているところがありました。
それぞれ剥がしてみると、そこに居ました。

皆さん、全てお亡くなりになっていました。

着の身着のまま、あの日、あの時のままの姿です。
津波に呑まれ、ガレキに押しつぶされて、そのままの姿でした。

この人たちにも、その先の人生があったはず。
こんな想定もしてなかった災害に遭い、時計が止まりました。

悔しさと悲しさと。

それでも次の命を探します。

「誰かいませんかー!?」
声を張り上げ、ガレキをめくります。
ここに居てくれと願いつつも、ここに居るなとも願いつつ、とても複雑な気持ちでした。

今でも行方不明の人が多くいらっしゃいます。
突然閉じてしまった命ですが、ご家族のもとにお返しできることとなったと思います。


突如失った命を見つめ。

無造作に転がっているアンパンマンのおもちゃを見つめ。

家族を失いつつも、心身を削り業務に当たっている消防署員を見つめ。

それでも温かくぼくたちを迎え入れてくださった現地の方々を見つめ。


この巨大災害に対する、人間の命の儚さを。
命を守る行動を。
そして、手を取り合って支え合う人々の感性を。


心に刻んで、帰路に着きました。

往路は3日もかかったのに、
復路はアッと言う間でした。

東京湾から消防車はフェリーに乗せ、
ぼくたちはスターフライヤーのはからいで、飛行機で1時間で帰りました。

生存者を救出することなんて、1人もできなかった。現地の人たちに何の役にも立ててない。
何もできなったと落胆しつつ、1週間にわたった疲労を抱え、飛行機を降りました。
北九州空港には、驚くほどの人たちが集まっていました。


ぼくも部隊の一員として整列しました。
今まで部隊に整列することなく、撮影などに徹していました。周りからサポートしてくれる人はいませんでした。

帰ってきた報告として、敬礼をしました。
自分の挙げる右手に、初めて、任務を遂げたという気持ちがこみあげてきました。

現地ではレトルトのカレーを食べました。
帰って、家族と一緒に手作りのカレーを食べました。
美味しかったです。
ようやく手が洗えました。
手の洗えない一週間。
寝袋や駅のホームで寝ていました。
一週間ぶりに布団で眠れました。


これがぼくにとっての3.11です。

もっともっと壮絶な体験をした人もいるでしょう。
もっともっと長きにわたって戦った人もいるでしょう。
今でも苦しんでいる人もいるでしょう。

その後の長い復興復旧や、避難所への支援、行政支援などもありました。
ぼくが直接的に携わったのは、この発生から一週間後あたりだけです。

浅はかなところもあるかもしれませんが、
時代のアーカイブとして残ったらと思います。


それから・・・・

命の大切さを考える「スクール救命士」事業を展開していきました。
北九州市で育つ子ども達は、小学校、中学校で『手を当ててあげる』応急手当を学びます。
学習指導要領はパンパンで隙間の時間など無いのに、今でも、任意ではあるものの、ほぼ全校の学校で実施されているそうです。

命の尊さを胸に刻み、子ども達が命を守った釜石の奇跡。
想定にとらわれるな、最善を尽くせ、率先避難者たれ、の想いで、逃げることは命を守ることを北九州でも体現しようとしています。

巨大災害には、『共助』の力で立ち向かっていきたい。
近くの人で声をかけ合い、支え合う力が必要です。
防災まちづくりを進めています。

あれから12年、災害の少ない北九州でも、こうした大切な部分にアプローチしようと仲間が次々と増えてくれています。
人と情報と実績が集まる『防災Lab.北九州』も結成できました。


この時期になると感傷的になります。
季節の風や日射しの角度のせいでしょうか?

桜が咲くのが待ち遠しくなります。

この記事を書きつつも、涙がこぼれてきます。
きっとPTSDのひとつだと思います。

それぞれの3.11。
暦が一周回りました。

2万人の命を失いました。

次の時代へ、教訓を引き継ぎ、
次の時代へ、また新たな道を進んでいきたいですね。


今日もご覧いただきありがとうございます。
いつもより長くなってしまいましたね。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

また、消防の内情は個人の発信ではタブーですが、消防の肩書きではないタイムリミットが近づいていることと、12年の歳月が経ちましたので時効ということでご了承ください。




<1年前の”今日”の記事★>

この『仮称』としていたネットワーク組織が、現在の『防災Lab.北九州』になりました。
すごいメンバーで、すごいチームです。
これからも発展させていきましょう。


いただいたサポートは、NPO法人好きっちゃ北九州の活動費に、大切に活用させていただきます!!