LGBTQ+が『自然』に生きること

 LGBTQ+の人々が自然に生きるには、どうすればよいのだろうと、時々考える。
 自然に生きるというのは、特別扱いをして欲しいというわけではない。だから、少し前に流行ったジェンダーレストイレは、気遣いが変な方向に向かっているなぁと思ったものだ。
 少なくとも僕は、そこに存在していて当たり前、と思って欲しいだけだ。女と男とXとトランスと……というように、この世には男と女しかいないと思わずに接してほしい。体と心の性別が一致していると勝手に思い込んで、色々な考えを押し付けたり、公共施設で男女に分けて服の貸し出したりしないでほしい。つまりは、存在して当たり前になるわけだが、正直実現はかなり厳しいのではないだろうか。
 心の性別がいくつあろうと、体の性別は二つなわけだし、ある程度、男か女かで判断すべき部分はある。そもそも一定レベルのステレオタイプなり、バイアスなりは、人間が生きやすくなるために必要な面もある。全てを否定すべきではない。
 しかしながら、LGBTQ+が自然に生きるには、おそらくこのステレオタイプやバイアスを破壊しなければならない。それは非常に難しいことだし、我々にばかり目を向けてもらうわけにもいかない。それこそ特別扱いになる。
 LGBTQ+を受け入れることは、多様性を認めるとも言えるだろうが、昨今の状況を見ると、それに固執するのはいいこととは思えない。極端な例ではあるが、たとえば、街中の壁やコンクリートにペンキを塗りたくる人がいたとして、「これは個性の表現なんだ! 多様性の一種だ!」と言われて、それをその通りだと認めるべきだろうか。いや、それはないだろう……と言いたくなるような「多様性」を主張する人は、残念ながら度々見かける。故にLGBTQ+においても、全てを多様性として認めねばならないとは思えないのだ。性転換手術をしていないならば、心が女性だとしても、女湯や女子トイレは避けるべきであろう。たった一人の苦しみを救うために、多数が恐怖を得るのはあまりに不公平だ。
 だがそうして、何もかもを認めない、認知しない、となっては、やはり現状は改善しない。
 いい解決策はないものか、と、このことについて考えるたびに思ってしまう。

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