そりゃあ可能ならば普通に生まれたかったという話。

 先日、狭い通路で道を譲られたときに「譲りますよ。レディーファーストですから」と言われた。その後、その人が今度は「ああいう言葉は今の時代ではよくないと反省しました。すみません」と謝ってきた。そして、一連のやり取りを聞いていた近くの人が「今は難しい時代だねぇ……」と呟いた。
 その言葉を思い出すたびに、どうしようもない怒りや悲しみ、やるせなさに包まれてしまう。無論、その発言に悪意がないことはわかっているし、やれ配慮だ、やれ多様性だ、と何かにつけて押し付けられる現代が大変なのもわかる。しかしながらどこかで、ぼくたちの存在自体が悪だと言われているようにも思えてしまうのだ。
 「男」と「女」以外の性別を持つ人はたくさんいる。けれどそれは見た目ではなかなかわからない。だから安易に性別を決めつけた発言をするのはよくない。ぼくたちのような性別を持つ人間がいなければ、このような配慮は必要ない。
 ただの被害妄想である。たとえ相手がシスジェンダーの女性であったとしても、むやみに女性扱いし、それを押し付けるのは、今の時代では望ましくない。だから本当に被害妄想だ。行きすぎたものだ。それでも思ってしまう。
 ぼくは好きでこの体に生まれたわけでも、この性別に生まれたわけでもない。シスジェンダーであれば、どれだけ生きるのが楽だろうと常々思う。それでも、ぼくはぼくでしかない。ぼくの性別は変えられない。そう生まれたのだから、受け入れるしかないのだ。シスジェンダーの人からすれば理解は難しいのかもしれないが、こういった性別は勘違いでもないし、捨てられるものでもない。
 難しい時代。ぼくたちがいるから?
 難しい時代。軽率な発言は弾圧されるから?
 難しい時代。難しい時代なのだ。
 発言に悪意はなかったとしても、ぼくのような人間がいなければ、こんな配慮ばかりの時代にならなかった。面倒なものだ。どこかできっとそう思っている。
 ぼくはぼくのような人間の存在自体が当たり前だと思ってほしい。しかし面倒だと感じる人にとっては、ぼくはその他大勢のうちの一人でしかない。主義主張が違えど、多くに埋もれたうちの一人だ。
 だからこそ、どうしようもない怒りを感じてしまう。当事者じゃないから、知らんぷりか。そんな知らんぷりたちが集まって、現状が作られている。
 同時に、悲しくもなる。そうやって他者に負担を強いている。ただ、ただ、普通に生きたいだけだけれど、それはまだ、世間では普通ではないから。
 そうしてやるせなくなる。誰も悪くない。ただ苦しい。ただ生きにくい。ただこうして生まれてしまっただけなのに。
 ただ好きな服を着て、ただ好きな髪型をして、自由に人を好きになって、自由に生きる。昔は当たり前にできていて、疑いもしなかったことが、この頃、少しだけ難しくなったなぁと思う。難しくしているのは自分自身かもしれないが、それも含めて、寂しい。
 今日は考えを述べたいとかではなく、どうしようもない感情を吐き出したかっただけの記事。

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