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配慮への感謝を忘れたくないなぁという話。

 僕にとって、容姿を褒められる場合、嬉しいのは「かっこいい」や「男らしい」である。見た目に関しては男性を目指しているのもあり、男性扱いをされたり、一般的には男性に向けられる言葉を言ってもらえたりするのは、至極嬉しいことである。
 先日、そんな容姿に対する褒め言葉について、考えるきっかけになった出来事が起きた。
 それはとある人に、立ち姿が男性みたいだった、と言われたことだ。会話の流れで、自然と言われていたら、僕も素直に喜ぶだけで何も思わなかっただろう。だがその人は、その言葉にたどり着くまでに、言い淀んだのだ。「なんて言ったらいいか……」「こういう表現でいいのかはわかりませんが……」と言った悩む様子を見せてから、男性みたいだと言った。
 今まで生きてきて、たとえば友人が僕の容姿を褒めるとしたら可愛いではなくかっこいいであった。女子トイレに入ったら、驚かれることもあった。見知らぬ人に兄ちゃんと呼ばれることもあった。
 つまりは、僕のことを知っている人も、よく知らない人も、自然と男性扱いしてくることがまあまああった(無論、女性扱いされることも多いが)。
 だからこそ、言い淀む姿を見て、新鮮味を感じた。そして同時に言い淀む理由を考えた。きっと男性と表現することが、失礼に値する可能性も捨てきれなかったからだろう。確かに僕の見た目は男ではあるが、体自体は女のままである。初めて出会った人からすれば、単にメンズ服が好きな女性にも見える。結局は男性みたいだと口に出してしまっているのだから、変わらないのかもしれないが、それでも、その言い淀みには僕に対する配慮が内包されていたのだろう。
 僕からすれば、男らしいは褒め言葉でしかないのだから、遠慮などせずどんどん言ってくれ! くらいの気持ちでいる。きっと褒め言葉に「かっこいい」を選んでくれる友人らは、僕のその気持ちを察している面もあろう。故に、その配慮に感謝して生きてきた。
 しかしながら、逆の配慮もあるのかと、今回の出来事で知った。
 僕は色々な配慮に包まれて、生きているのだなぁと、実感する。そしてそのことへの感謝は決して忘れたくないと、思う。

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