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薩摩藩士の歴史~わたしの出自について~

父も母も鹿児島出身で、鹿児島生まれ東京育ちのわたし。

珍しい苗字なので、父方の祖父方面、つまり救仁郷家の出自については、資料も見つけやすく過去に多少調べたこともありましたが、祖母の実家や、母方の祖父母の実家についてはあまり深く気にかけたことがありませんでした。

しかし昨年から日本遺産「麓祭り」のメイン会場として母方の実家を使っていただけることになり、日本遺産に登録された薩摩藩の麓に現存する屋敷としてどのように保存、継承していくのがよいかを念頭において調査をはじめました。トップ画像は、その屋敷の縁側にに郷土工芸の「垂水土人形」を展示している様子。

文禄・慶長の役(1592~1598年)のときに、島津義弘が伴い帰った陶工たちが制作したのが、薩摩焼と土人形だったと言われています。垂水では、元禄(1688~1704)頃から作られていたと言われています。
江戸期にはもっぱら武士の内職として、娘、花嫁、福神、犬、猫、鯛などの人形が作られました。

こちらは石垣、家の門は老朽化で取り壊してしまったそうです。



 
今年2022年12月4日に麓祭りが開催されるそうで、視察に伺うことにしています。
麓(ふもと)というのは通常意味する「山のすそ」のことではなく、薩摩藩独自の武家屋敷群の名称で、鹿児島県内9市に残る文化財として2019年度に日本遺産に登録されました。
1600年の関ケ原の戦いで徳川家康が天下を取ると江戸幕府は、一つの藩には一つの城しか認めないという「一国一城令」を発布しました。そこで薩摩藩初代藩主の島津家久が鶴丸城を本城として定め、薩摩藩全体を防備するためには各地に点在する麓を外城として整備したといいます。
中でも垂水麓は日本遺産の11の麓の中で唯一、島津一門家(垂水島津家)によるもので、格式の高い麓ということになっています。現在垂水小学校となっている林之城跡を中心に、広大な範囲で整然とした格子状の区画が広がっていて、それが現在は市街地となっています。

わたしにとって母方の祖父の実家である垂水の有馬家は、戦国時代の武将である島津忠将公と共に天文17年(1548年)清水城に移った有馬純次が初代、忠将公と一緒に戦死、天正19年(1591年)に2代目純次は島津以久公のお供で種子島に一旦移住、そこで先に挙げた関ケ原の戦いとなり垂水の領地を与えられた以久公に付いてやってきました。
このように垂水島津家とは深い関わりがあるため、当初は城内に屋敷があったそうです。明治維新によって封建制度が解体された後、この城は明治2年に小学校となりました。祖先がこの小学校の初代校長を務めたという話をきいています。


曾祖父の写真、今年の夏こちらで初めて見ました


その有馬家の家系図は、市の教育委員会の資料として保存されており、今年の夏に見せていただきました。
12代目に当たる曾祖父は、明治22年(1889年)に大日本国憲法が発布されると市町村法の実施により、初代村長に任命されました。
名誉職であっても生活保障はない、というこの仕事。実際は何が収入源だったのでしょうか?また、曾祖父に嫁いだ女性(つまりわたしの曾祖母)である女性は、鹿児島県の初代婦人会長を務めたと聞いています。
彼女の実家とその家業、教育は?

気になることが色々ある。生き証人がまだ現地にいるかもしれないと思うと、今のうちに調べておかなければという気持ちになります。
 
 
また、わたしが知りたいのは父方の救仁郷家との関わりです。
「戦国時代に島津氏久からの報復で落城」「明治時代には西郷隆盛の創設した幼年学校から1875年にフランスに留学した人物がいる」という事から見ても、救仁郷家は島津家とは敵対関係にあったのは確かで、島津家に仕えていた母方の有馬家とは相容れないものがあったのではないでしょうか。
 

https://kagoshima-fumoto.jp/tarumizu/


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