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最期を選べるとしたら。


先日、スイスで安楽死することを
選択された日本人女性のニュースを見て、
深く深く、深く考えさせられた。

日本では安楽死は認められていないため
ご遺体を連れ帰るのはもちろんのこと、
ご遺灰を持ち帰ることも出来ないのだそう。
そのためご遺灰はスイスの川に流されたのだと。


安楽死そのものは賛否両論あると思うし、
それは当然のことだ。
個人的には、きちんとした条件下のもとで
本人の意思であれば、安楽死はいつか
日本でも認められてほしいと、願っている。
それが正しいことかなんて分からないけれど。

この世に産まれてくる時は選べない、
何処にいつ生まれるか。

死ぬ時はどうだろう。


突然の事故などであればもちろん
何処でどんなふうに死ぬかなんて選べない。

でももし、毎日耐え難いほどの苦しみの中にいて
家族や友人に感謝の言葉を伝えて逝けるとしたら。
最期の瞬間を自分で選べるのだとしたら。
わたしは、もし自分がそうなった場合、
自分で最期を選びたいと思うからだ。

そして、自分の場合だったらと
そういうふうにしか考えることはできないけれど、
「安楽死という選択肢があること」が
もしかしたら希望になるのではないかと思う。

頑張って頑張ってがんばってみて、
もう本当に無理だと思えばそれを選ぶこともできる
そう思えることが自分自身にとって
希望になることもあるんじゃないか、と。

そしてその時、
住んだことも行ったこともない国ではなく、
生まれ育った安心できる場所で、
それが選べたらいいのに、とわたしは思う。

自分自身や家族や大切な友人が、
いつどこでどんな病気や怪我を
するかも分からない。

例えば、毎日生きていることすら耐え難いほどの
苦しみや痛みを抱えて生きなければならない、
それを一体何年耐えねばならないかもわからない、
そんな状態にいつなるか誰も分からない。
生きている人間平等に、その可能性があるのだ。

そうなった時に、自分なら何を選びたいか、
家族や大切な人が選びたいと言ったときに
どう感じるか、どうしてあげたいと思うか、
どんな状況でも答えを出すことは難しいだろう。
大切な人がそれを選んだら、
悲しくて辛くてやめてほしいと思うかもしれないし
それでも尊重してあげたいと思うかもしれない。


どんな状況にいても、自分自身でさえ
そう簡単には選べない選択肢だと思うし、
だからこそ選んだときの決意というのは
もはや揺るがないほど強いものであるはずだ。


正解や、全ての人が納得できるような
答えはきっと存在しない。
しないからこそ、この先大切に
議論されるべき大きな事柄のひとつだろう。


あべのハルカス展望台から見た、沈みゆく夕陽。



それでは今日はこの辺で。


最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。







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