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タイムマシン理論

世界を変える物でもないし、不特定多数遠救える物でもない。ただ、私だけのオリジナル理論が誰かの日々をほんの少し彩る事が出来るかもしれない。綺麗事だからこそ出来る、言の葉のギフトを少しばかりあなたに…。

 

 高校3年間、言われればあっという間だった。青春なんて言葉は、他の世界線でしか存在しないのかなって思うような底屈な日々。ただ、トレンドという普遍性の氾濫には巻き込まれないようにという、自分のエゴは守りきったはずだ。トレンドに呑みこまれた方がいいという意見が氾濫寸前だと思うが、ここは一つ、反論という堤防を築かせてもらいたい。突貫工事にしか聞こえないかもしれないが、普遍という言葉が大嫌いだ。普遍はすべてのものに共通に存すること、つまり無個性と私は思っている。自分は特別でありたい、そんな安売りなアイデンティティを被ってる時点で無個性に類じるものだったって今更思うが、認めてしまうと自分の中の何かが決壊して、嘔吐いてしまうので認めることは無い。
 

そんな生産性のない脳内会議をしながら、自分の部屋を片付けているがこれが全く進まない。私の部屋は今、真冬の日本海の大海原だ。今にも泣き出しそうな憂鬱な空のキャンパス、希望の光なんて言葉を使ったらタブーだといって、天道様にご指摘を受けるだろう。そのような空の下で白波を立て、グラーデジョンの無い海水たちが暴れ狂う。惰性的に喩えてみてはいるがもちろんただの汚部屋に過ぎない。そして私は大海原で、一攫千金を狙っているトレジャーハンターの設定。一攫千金を狙えたらよかったが、あいにくここは自室だ。さっさと自分の脳内パレットを閉じて、無駄な空想キャンパスを描くのを辞めようかと考えた刹那、続ける事にした。たまにはくだらない時間も愛でてやろうと自分勝手な解釈も欠かせずセットにしながら。所でトレジャーハンターにとって欠かせないヒロイン的な存在は何だ?と考えてみる。この部屋には価値がつくような物はない。強いていえば、ここにある”ガラクタ”には思い出という付加価値がついてるぐらい。お目当ての物は見つからなかったが、仲間と共に過ごした時間が宝物さ!…なんて、反吐がでそうなアニメのクライマックスを今回は採用させてもらおう。その付加価値が1番付いているものはこの部屋では限られてくる。小学校の卒業アルバムだ。もっとロマンチックな物が出てくるだろうとご想像された方には申し訳ないが、ロクな学生生活を送って来なかったのでこれぐらいしかない。ここ数年視界の中に入ってこなかったので、宝探しにも丁度いいだろう。そうと決まれば宝探し開始だ。ここ数年見ていないのならば、日常生活から孤立している場所だろうと鷹を括り、埃が被るクローゼットの上段を探してみる。”忘れた物を取りに帰るように古びた思い出の埃を払う”って歌詞あったなって事考えながら今は古びた思い出は払ったらダメだろうと笑みを浮かべていると、

「あ、あった。」

数秒前に考えていた歌詞の言葉通りの動作を行うとお目当て物が姿を現した。アルバムのカバーには自室の冬の日本海とは対照的なグラデーション彩る海に、何処までも届きそうな空に幾つかの風船が飛んでいる様子が淡く描かれている。残念ながら、過剰な前座を持て余しながらスタートしたトレンドハントが終わってしまった。でも開始早々に見つかったのは自分にトレジャーハンターの才能があるのではないかと浮かれた気分になりながら、アルバムをカバーから外す。アルバムを開いてみるとまず、行事毎に写真が載ってあった。個人写真は囚人かなと思うほどの味気ない背景に、あどけない笑顔。そして卒業文集。あのピュアな自分は何処に行ってしまったんだろうと思いながら、アルバムをもう一度見返してみる。

「写真に映ったあの頃の自分は、あの頃のままなんだな。」

と、ふと思った。

「いや、当たり前だろ。」

とツッコミの手を打とうとしたが、それは未遂で終わった。何故なら、

「写真に映っている12歳の自分は12歳のまま、6年後の未来にタイムスリップしてきたのではないか?」

そう思ったからだ。つまり写真は、時空を超えるタイムマシンではないのかと。おかしな事を言っていると嘲笑を受けるかもしれないが、一度考えて見て欲しい。タイムマシンは未来または過去に移動することのできる道具の事で、別に某猫型ロボットアニメのように乗れる機械である必要はない。とんでもない事を思いついてしまったと、自分の天才さにびっくりした矢先だった。

「未来には行けるとして過去には?」

この天才的な理論を成立するにはもう一つ疑問を払拭する必要があるらしい。払拭する為に、頭脳を過労働させる。自分だけの理論を考える時だけは、労働基準法なんておかまないなしだ。そうしていると、処理エラーを起こしそうな頭の中に一つの答えが浮かんだ。

「過去の自分は未来に行き、今の自分は一瞬の過去に行くのでは無いか。」

写真に写っているのはフィルター越の世界の”一瞬”。そして、記録した一瞬を紙やディスプレイなどの媒体に写し出す。一瞬ではあるがそこにはもう戻る事の出来ない風景、表情、空気感…。そこに写る全てが、人々が写真を撮った当時の記憶を想起させる。記憶は写真には写すことが出来ない感情までも想起可能だ。そして人間はその一瞬に浸り、時には仲間と思い出話に花を咲かす。これは過去にタイムスリップしていると言っても過言ではないだろう。誰かに難癖付けられても、定義上では間違っていないと押し切ることにしよう。それと写真がタイムマシンだとすると特別感がないと言われるだろう。私も最初は同じ事を思ったが、某猫型ロボットのアニメでも、他の道具はきちんとキャッチーなメロディと共に紹介するが、タイムマシンは紹介されない。ましてや主人公の机の引き出しを開けると直ぐに使用可能で、あたかも当たり前のように使っている。アニメのタイムマシンも扱いに特別感なんて無いようなものだがら、写真というタイムマシンも同じ扱いがお似合いだろう。そう自分で完結させた。
  

 頭の中ではノーベル賞物の世紀の大議論を沸かしながら、アルバムをめくる。自分の黒歴史ばかりが写り、頭の中に微塵たりとも想起させたくない暗い過去も思い浮かんだ。写真は一瞬を切り取り、感情などは写せない。それが上、楽しそうにしていても裏では決してプラスとは言えない暗い感情だって居座ってる。失恋した後かもしれない、とんでもない失敗をした後かもしれない。もしかしたら自殺衝動を抱えているかもしれない、何故なら自分がそうだったからだ。それでも写真に写る一瞬の自分は、未来つまり今に存在している。

「その事実が、私がこれまで生き抜いてきた証明になるのではないか?」

 写真というタイムマシンは、タイムスリップのみという安直な道具ではない。今を生きている自分自身を証明してくれるのだ。某猫型ロボットのアニメのタイムマシンでも言えるかもしれないが、私の知る限りその様な描写は描かれていないので、これは写真だけの特別な性能だと言っておこう。理論を成立させ自分は天才だと誇らしげにしていた。自惚れて過ぎだろと言われてるかもしれないが、それぐらいは自分を肯定させて欲しいと思っている。いや、そんな事ほざいてる場合ではない。この理論は色々と応用可能で、不特定多数に使われてしまうかもしれない。特許を申請しなければ!…と騒がしい絵空事を思い浮かべつつアルバムを閉じる。部屋を掃除している事なんてとっくに忘れていた。

 高校生活も終わる。最後に卒業アルバムも貰うだろう。アルバムの中の写真は、どんなタイムスリップが出来るのだろう。タイムマシンは誰と使うのだろう、1人のままかな?それとも…。お決まりの脳内会議をスタートさせながら、カレンダーの卒業式が行われる日付を徐に見つめた。

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