見出し画像

(株)いろはやの軌跡~創業期~

(株)いろはやは大正時代から昭和へと3代目中山宇八さんが経営を担っていました。幕末の動乱から時代も落ち着き日本の近代化への道にあわせて店も順調に発展していきました。


当時のいろはや 写真中央でひじをついているのが3代目宇八氏。


本店が位置する島原市堀町は島原城の城下町にあり島原半島中からたくさんの方がお買い物にきてくださりとても賑わい、いろはやも実用衣料を中心によく繁盛したそうです。


いろはや 社用車第一号

しかしながら時代の雲行きが早く怪しくなり、第2次世界大戦へと進みます。物資が不足して売るための商品がない。食料も配給制になり仕入が困難。商売自体ができなくなりました。そこで辣腕をふるったのが宇八さんの奥様でおられる。中山千鶴さんでした。


中山千鶴(ちず)さん 


千鶴さんはいろはやを存続するために一念発起。引揚者を対象に「観海荘」と言う旅館を創業して何とか暖簾を守り抜きました。時代に合わせて全くの異業種に挑戦する千鶴さんのDNAは今もいろはやに引き継がれています。


島原市片町にあった旅館 観海荘パンフレットと島原の観光案内。


島原市片町にあった旅館 観海荘パンフレットと島原の観光案内。


観海荘のチラシ。牛乳風呂が名物だった。

この時4代目の店主の予定だったのは中山家の長男、中山定八郎さんでした。


中山定八郎氏

中山定八郎さんは福岡大学を卒業し、いろはやの後継者として島原に戻ってくる予定でした。しかし学徒動員で戦地へと徴収されてしまいました。日本海軍の主計会計という名目で徴兵されたものの折りからの戦局の悪化から戦地へ赴くことになりました。

家族は無事を祈ったもののサイパンで戦死するという痛ましい結果となりました。その時母親であった中山千鶴さんは1週間以上、衰弱するほどに泣き崩れたそうです。

この話には後日談があります。当時サイパンは激しい攻防が繰り広げられたくさんの戦死者、マラリア、餓死者を出しました。米兵だったトム・リンソ
ンさんも日本兵相手に勇敢戦った米兵の一人でした。

そのトム・リンソンさんが洞穴の中でとある日記を見つけました。トムさんはその日記を後世大切に保管していました。その後日米の国交が正常化しトムさんがその日記を遺族の方にお渡ししようと日本政府に働きかけたのです。その日記がなんと定八郎さんの日記だったのでした。定八郎さんは敵地の戦局が厳しい中でも日記を肌身離さず持ち歩き日々の動向を記載していたそうです。


定八郎さんが戦局でも肌身離さず持ち歩いた日記。


福岡商高 中山定八郎の文字が。


最後のページ。「爆弾投下。機銃清射。物凄し」が最後の文言に。

資料的な価値もあり当時大々的に日本中でニュースになったそうです。
定八郎さんはいろはやの後継者としての夢は叶わなかったものの、日記となって御霊が島原に帰ってきたのでした。今も仏壇に大切に保管されています。

トムリンソンさんと定八郎さんの弟、中山富司男さんが渡米。日記を授与した。

戦争中の物資不足。後継者の痛ましい戦死。数々の困難を経て(株)いろはやは今もなお存続しています。先祖への想いを胸に。「拡大よりも永続へ」定八郎さんが叶えることができなかった想いも含め進化しかないといけません。

定八郎さんが最後に島原に帰省した時の写真。(観海荘前にて)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?