立待月 第四話 (4/22)
四〈あやめ〉
今日から旅行に行った欽ちゃん夫妻の代わりに、店を任されたわたしとセイは、居酒屋欽ちゃんをあやめ仕様にするための作業に取りかかっていた。べつに欽ちゃんのまま営業をすればいい話だが、自分仕様にしないと気が済まなかった。こういうこだわりは一見無駄のように思えるが、必ずいつか役に立つと思っている。
「欽ちゃんが戸車直してからすこぶる調子がいいんだよね。いままでのパワーで引くとそのうちぶっ壊すよ」
わたしは入口の引き戸に、開きやすいので注意と書いた紙を張った。開きにくかった頃を知っている常連には、ありがたい張り紙だった。
テープで補修してあったちょうちんはすでに根元以外風で破壊されているが、それはそのまま、橙の光を出す裸電球のままにしておいた。味と言うやつだ。困ったときは味があると言っておけばなんとかなるもんだ。
白い紙にマッキーで「あやめ」と書き、欽ちゃんと書かれた看板の上にガムテープで貼りつけた。これでわたしの独擅場である。
店先には白地に黒文字の「欽ちゃん」という電光看板があったが「あやめ」と書いた紙を貼りつけても下地の欽ちゃんという文字と重なってしまうので、電光看板は出さないことにした。
わたしたちがのろのろとそんなことをしていると、わっさんが暗闇からあらわれた。
「おあ! びっくりした!」
わたしが声を上げ、セイはこんばんはと挨拶した。
「居酒屋あやめ、オープンだね」
わっさんが看板を見上げて笑った。わたしの字が汚かったからだろう。
「オープン時間ぴったり。さすがです」
時計を見たあやめが感心して言った。十八時だ。今回のイベント的居酒屋あやめは夜営業のみである。
わたしたちは店内に入って、セイはカウンターの中ほどに座り、わっさんはカウンターのいちばん奥に座った。これが彼らの定位置だった。わたしは一度カウンター内に入り、おしぼりを持ち、客席に戻ってからいつも欽ちゃんの奥さんがやるようにおしぼりをわっさんに渡した。お通しは豆腐になめたけをかけたものだった。これは欽ちゃんおなじみのものである。いつも奥さんがやっている作業なので、本来はセイにやってもらう予定だったのだが、どうしてもやりたくてからだが動いてしまったのだ。
「さて、なに頼むか」
おしぼりで鼻の頭とメガネのフレームを拭いてからわっさんが言った。わっさんがよくやる仕草である。先日、奥さんが体調不良だと聞いたときは心配したが、いつもの仕草が自然と出るということはたいしたことがなかったのだろう。
「焼きそばと塩焼きそばとフランクフルトしか出ないよ。いっそ全部出しとくか」
わたしは腕まくりをしてやる気満々であった。
「フランクだけでいい。とりあえず」
わたしの必要以上のやる気はすぐにそがれた。箸を持ってぶらぶらしていた。
そのとき、引き戸を開けて入ってきたのは、めったに来ない山崎くんだった。
「あれ! どうしたの! 欽ちゃんに来るなんてめずらしい!」
わたしは心底意外だという声を上げた。あまりにも意外で、良いことか悪いことなのかわからないが、なにかしら特別の理由があるのだろうと思った。わたしの予想では女性問題であった。
「ああ、こんばんは。あのさ、ちょっとあってな。聞きたいことあって」
山崎くんはそわそわしていて、いつもよりまばたきが多い気がした。
「きょうからさあ、いろいろあって三日間あたしが店番なんだよね」
「看板見たよ。そんなことだろうと思ってた」
山崎くんには一から十まで語る必要がないので楽である。
カウンター席に腰掛けた山崎くんは、わたしからおしぼりを受け取って、適当に手を拭いた。セイと逆で衛生には無頓着だ。山崎くんは難問を解くときのようなむずかしい顔をして、フランクフルトをつまみながら、しばらく静かに飲んでいた。
すると突然、思いついたように、
「あのさあ、風俗ってどう思う? その、そういうところに行く男ってさ」
と山崎くんが言った。
むずかしい顔から出てきた答えがとんでもなく意外だったので驚いた。
「ずいぶん唐突な話だね」
わっさんが楽しそうに言葉を挟んだ。椅子に座り直し身を乗り出すようであった。
「うーん、たとえばセイが行くって言ったら嫌だけど、友達が行くのは気にならないかな。女の子が嫌がることを無理やりやってるとかなら別だけど。風俗は必要だと思う」
とわたしは言った。
なんのきっかけでそういう考えになったのかは覚えていないが、特につっかえることもなくすらすらと答えた。
「感染症がこわいんですよね!」
店に入ってきたひなちゃんが言った。ビッチでも感染症のリスクは気になるのだ。
「それ、ひなちゃんが言うか!」
と言って、わっさんが声を出して笑った。今日はお茶割りを飲んでいる。
「で、山崎くんは最近風俗に行ったと?」
話をすすめたのはわっさんだった。
セイはそういうところに行かないはずだし、わたしも知識がないので、必然と話をすすめるのはわっさんになった。ロックンロール氏も欽さんも縁がない気がする。
「ええ、まあ、行ったんです。そういうところに全然興味がなかったんですけど、いや、全然興味がなかったといえば嘘になりますけど、突然そういう世界を覗いてみたくなって。行ったんです」
わたしは山崎くんが何年ひとり者なのか気になって、たしかずいぶん長い気がして、
「彼女いないの何年だっけ?」
と軽く聞いた。
「十二年になる。山崎12年」
山崎くんはサントリーウイスキーの銘柄をつけ足した。持ちネタである。
「ええーっ! 十二年間なんもないんですか!」
ひなちゃんが驚いて大きな声をあげた。驚いた顔がなかなか収まらなかった。
「ない」
山崎くんは無表情で答えた。
「それで行ってみたら、すっかりハマってしまったと?」
感情が盛り上がってきたのか、語気を強めてわっさんが言った。
「最初は知らない世界をちょっと覗いてやめるつもりだったんです。こう――絵画を鑑賞するような気持ちで。こちらがあちらに影響しないような形で。――でも、あたりまえなんですけど、その世界はしっかり動いていて。わたしが遊んだのは四人なんですけど、話してみればそれぞれに人間模様があって、ただ鑑賞して終わるつもりが、そう中途半端なところで終わらせるわけにもいかなくなってしまって。そうこうしているうちに、いつのまにかすっかりそれに巻き込まれてしまって。抜け出せなくなってしまったんです。僕は僕のまわりの世界だけが動いていると思っていた。でも、この世界に止まっている場所などどこにもなかった」
最後のほうはよくわからなかったが、それが余計に混沌とした山崎くんの感情をあらわしているように感じた。もっとわかりやすく言ってもらわないとわからない。
「風俗嬢に惚れた?」
わっさんが容赦なく核心を突く。
「まあ簡単に言えばそういうことになるかもしれません。人懐っこくてすごくいい子なんですよ。いま大学通ってるんですけど、それを卒業したらまた別の大学に行きたいからお金を貯めてるって言ってて。普通のバイトじゃ厳しいから、こういう仕事選んだって言って」
山崎くんは目のまわりを赤くして感情的になっていた。
「あのさ、なんか夢を壊すようで悪いんだけど、そういうところの女はさ、ほんとのことなんて言わないと思うよ。特に学費を稼ぐなんて嘘の定番もいいとこだよ」
わたしは山崎くんに感情移入してしまって、わっさんの言葉を冷静に受け取ることができなかった。
「いや、僕は信じます。だって疑ったらきりがないじゃないですか? あれは嘘だ、これは嘘だ、って悟ったようなこと言ってたらなにも面白いことはないですよ。普通の恋愛だって、友達関係だって、疑うならみんな一緒ですよ。風俗だからって、特別だとは思わない。金が絡んでるからという人がいますが、そんなこと言ったらバーテンダーだって、それこそ欽さんだって同じですよ。一緒にされちゃ困るって怒られるかもしれないですけど、お金をもらって客に話を合わせたり乗ったり持ち上げたりするって面では同じだと思います。だから嘘つかれても、おだてられても、僕は自分が納得するまで信じます」
と山崎くんが言い切るとすかさず、
「そこまで言うなら何も言うまい。まぁ、そんな興奮しないでよ。これ、一般論だからさ。悪気があって言ってる訳じゃないよ。ところで、いくらかかるの、一回」
とわっさんが山崎くんをなだめてから、改めて切り込んだ。
「コースはいろいろありますけど、わたしはいつも70分コースで、一万八千円プラス指名料二千円ですね。さらにレンタルルーム代で二千七百円かかります。派遣型のピンサロでデリピンというんですよ」
わたしはセイのほうをちらりとうかがったが、セイは静かにグレープフルーツハイを飲んでいた。知らないことには口を出さない姿勢らしい。
「いい値段するね。本番できるの?」
わっさんの質問が続く。
「できないです」
「割高だなあ。本番交渉してみたら? 俺なら言ってみるけどなあ」
わっさんはなかなか詳しい。それなりの経験があるに違いない。
「そういうのはなくていいんですよ。残り時間に友達みたいに話せるのが魅力的なんです。むしろその時間が好きで行っているという面はあります」
「でも、友達と話すのに二万は払わないでしょう?」
わっさんがもっともらしいことを言う。
「それは――」
山崎くんが言葉に詰まったところで、わたしが助け舟を出した。
「損得感情とか理屈ではどうにもならないんだよ。山崎くんの気持ち的にはさ、その子のために金いくら使っても、後悔しないんでしょ? これからも後悔しないように、自分が納得するまで徹底的にやったほうがいいと思う。わたしは山崎くんを支持します」
山崎くんはわたしの言葉に感動して絶句していた。いまにも泣き出しそうであった。
「ただし金が続く限り。金借りてまで行くのはまずいな。ていうかさ、本当は欽ちゃんに相談しようと思って来たんでしょ? なんか相手があたしたちで悪かったけど、それなりに解決してしまった感じじゃない? 欽ちゃんだったら、可能性はゼロじゃない、って言いそうだな」
「いや、いちばん伝えたかったのはあやめなんだ。だから、今日こうやって話すことができて嬉しいよ。わざわざ誘ってまで話す種類の話じゃないと思ってたから、本当に話せてよかった」
山崎くんは感動の波から開放され、感謝の気持ちに満ちあふれているようだった。
「あのさ、最終的にはさ、どうなりたいの?」
わっさんはすこし酔いが回ってきたようで、普段にない会話を楽しんでいる風であった。
「それが、つき合いたい、彼女にしたい、どちらもしっくり来ないんです。だから自分でもこの感情はよくわかりません。ただ、憧れや尊敬という要素はあります。彼女とても頭がいいんです。わたしの勝手な評価なんですけど。僕は風俗嬢だろうがなんだろうがそんなの気にしませんから、そのままの彼女を評価しています。なんでしょう、そばにいたいって感情でしょうか。尊敬できる人のそばにいたいんです」
そこでセイが口を開いた。
「世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪しからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢を極めていると言わなければならぬのです。と夏目漱石は言っていますね。――要するに僕が言いたいのは、彼女は最も人のためになることをしているということです」
セイは早口で言ったので、山崎くんはすぐに内容を理解できなかったようだが、セイを尊敬のまなざしで見ているようだった。
「いま思ってることをさ、シンプルに表現するとどうなるの?」
わたしが山崎くんに問いかけた。
「彼女に会いたい。話したい。でも、すべてを知りたいとは思わない。あいまいなところは、あいまいのままでいい。僕はただの恋愛感情として片付けたくない」
そのとき、ロックンロール氏が店に入ってきた。
「修さん! 今日は財布大丈夫?」
「OKロックンロール! 今日は大丈夫だお」
ロックンロール氏はよく財布をなくす。いまは大丈夫だが、これから酔っぱらうと当然、危険度が増す。今日は早いうちに欽ちゃんに飲みにきたが、はしご酒の最後の店になることもある。
「山崎くん、こねえだ北口のファミレスにいたっぺ? 店がガラス張りだったかん外からよく見えたんだお。女連れだったっけんが、相手は誰かわかんねったな」
「ああ、そうですか。見られてましたか。女性とお店にいましたよ」
山崎くんはなぜか薄笑いを浮かべている。緊張が解けたような表情である。
「風俗嬢?」
とわっさんが問う。
「――には違いないです。でも、いまさっきから問題に上がってる女の子ではないです。相談に乗ってもらっていたんですよ。さっき四人と遊んだって話しましたけど、そのなかのひとりです。いつだったか忘れちゃいましたけど、駅前でハンカチ落とした人がいて、声をかけたらその子でした。マスクしてましたけど、直感でわかりましたね。女好きの直感です」
山崎くんはすっきりした表情で話した。梅干ハイの梅干をマドラーでつぶしていた。
「それでまあ、うまくやって連れ出したわけだ」
わっさんが酒をぐいっとやった。
「連れ出しも連絡先の交換もご法度なんですけど、あくまでも偶然に会ったので連れ出しとは違うかなと思って。そのあと事情を話して食事に誘ってみたら連絡先を教えてくれました。そこを目撃されたんですね。見つかったら面倒なことになると思って、びくびくしてましたよ」
「あのときかあ」
わたしの言葉にセイは首の動きだけで同意の意思をあらわした。
「もうその子でいいじゃん!」
ひなちゃんが笑顔でひょいとからだを反らして言った。
「まあ、続編をお待ちしておりますよ。応援してるからさ」
とわたしが言って「応援してます」とセイが言って「応援、できるかなぁ」とひなちゃんが言って、わっさんが「応援、しちゃだめな気がする」と言って「OKロックンロール! モーマンタイ」とロックンロール氏が締めた。
「そういえばさあ、最近バンジョー先生見なくない?」
あやめが誰にともなく問いかけた。
「それこそ女買いに行ってるよ」
質問はわっさんが受け取って、煙草に火をつけた。
「どゆこと?」
わたしは子供のように座っている椅子をぐらぐらやりだした。
「ベトナム旅行に行ってる。あっちで若い女買ってるよ」
煙草の煙を吐き出してから、わっさんが言った。
「えー! なんかイメージ崩れるなあ。先生も男なのね」
いい切ってから、わたしは口をとがらした。
「男なんてそんなもんだよ! 隙あらば!」
ひなちゃんが妙なポーズをつけて言い切った。
じっとりした目でわたしはセイを見た。なにかあったらただじゃおかないぞ、という脅しに近い念がよぎる。
「ん? なに? 僕はそんなことないよ」
とぼけた表情でセイは言った。セイはグレープフルーツハイのグラスにまとわりついた水滴で遊んでいた。
「セイくんてさあ、なかなか尻尾出さないよね」
わっさんはニヤニヤしていた。どうにかなにかを引っ張り出してやろうという顔だった。
セイはちょっと思案してから、
「出さないんじゃなくて尻尾がないんですよ。退化したんです」
と言った。ひと呼吸おいてから、
「それはそうと、昨日の件は大丈夫だったんですか? 娘さんから電話が来てすぐに帰りましたけど」
セイが心配そうな目をわっさんに向けた。
わたしは不自然なほどじっと静かにしていた。
「休み明けに血液検査することになってるんだよね。異常がなきゃいいんだけど」
わっさんの顔色が一瞬にして年を取ってしまったように変わった。短い呼吸を繰り返し、心を落ち着けようとしていた。
#創作大賞2024 #お仕事小説部門
第一話 https://note.com/iromachiotome/n/n634f7b3d9f01
第二話 https://note.com/iromachiotome/n/n06fea091c7c4
第三話 https://note.com/iromachiotome/n/n2757ae715e4b
第五話 https://note.com/iromachiotome/n/n09fbcf6e500e
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