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【読書まとめ&いろうたの考え】「モヤモヤの正体~迷惑とワガママの呪いを解く~」と「さよなら、男社会」

週末に二度目の読了をし、表題の内容について自分なりの考えが今朝ほど降りてきたので、感じたままをまとめてみたいと思う。

○なぜ「ワガママ」を言ってはいけないのか?

表題の二冊を書いたのは、インタビュアーの尹雄大ユン・ウンデ氏(日本名は中村雄大)。彼は男性だが、男性が作り上げてきた日本社会と、それが作り出す空気感、同調圧力などに疑問を感じ、自身の経験や様々な立場の人を例に挙げながら、それが本当に「迷惑」「ワガママ」な言動、行動なのかを考察している。

表題前者の本で最初に取り上げられているのが、「満員電車でベビーカーを広げたまま乗ってくる女性」。彼女は本当に迷惑な存在なのか。そして彼女に対して「迷惑だ」と言ってしまう人の深層心理とは何か。注意深く探ってみると、そこには、

「自分に配慮して欲しい」

という思いが潜んでいることが分かる。

「みんなが迷惑している」と、あたかも多くの人がそう感じているように主張することで、個である「自分」の思いを通そうとしているのだ。そうでもしなければ、自分の感じている「モヤモヤ」や「鬱憤」を公にすることが出来ないのが日本なのである。

そもそも、ワガママを言うことがなぜいけないのか。なぜ感じたままをいうと糾弾されるのか。それは「他人にどう思われるか」が「個人の意見」より優先される社会だからだ。

わたしたちは、集団生活の中で身につけてきた「自分を殺してまで周りにあわせる技術」を用い、いつでも「和」を重んじようとする。しかし本当は誰しもが、周りではなく「私」の意見を「私自身」が大切にしたいと思っている。「モヤモヤ」を感じるのは、無意識のうちに「私をいたわって欲しい」という、内なる自分からのメッセージを受け取っているからだ。

○「私」であってはいけない

私たちはしたくなかったことを受け容れ、周囲との調和を保ってきた。そうすることで上手く生きてきたつもりだが、その結果「私ではない私」=「周囲がよしとする行動、言動しか出来ない私」になってしまった

「自分自身」であってはいけないのだ。誰かの決めた常識、正しいとされる決まりを守ることでしか生き延びられないと思い込まされている、そういう社会なのだ。

こうして周囲に合わせ続けた結果、私たちは自信を失っている、とユン氏は言う。周りの言うことが正しく、それにあわせるしかないのだから、確固たる自分の信念をもつこともできない。持ったとしてもへし折られるのだから仕方がない。

過去に朝青龍というモンゴル出身の力士がいたが、彼には「自分」があり「信念」があった。それが強さの秘訣でもあった。しかしその「信念」が日本人からは「ワガママ」と見なされ、バッシングされ、彼は最後には心を病んでしまったという。

○自分と対話する

二冊の本の相論はこうだ。私たちが自信を取り戻し、自分らしく生きていこうとするならば、外に向いていた意識を内に向け、自分自身と対話をすること。本当の自分がどう感じているかを、ありのままにじっくり味わうことが必要、と言うことだ。

私たちは自分の心が傷つき、痛んでいてもそれを感じないようにすることで生き抜いてきた。しかし、自分自身を傷つけることは得意でも、癒やす術は知らない。

自分自身に「大丈夫?」「どうしたの?」と問いかけよう。膝を折り、内なる自分と目を合わせ、対話を始めよう、とユン氏は提唱する。

○いろうたの考え

最近、「自分の考えを通すことは悪いこと? ワガママって何?」との思いがあり、本書はその折に出会ったものだ。

ユン氏の高い語彙力と考察力から導き出された結論が、これまで私が主張してきた「内なる自分との対話」だった点には、「やはりそうか」という思いである。答えは外にあるのではなく、やはり内側にあったということだ。

私たちは生まれてから今まで、外から与えられたものを受け容れ、実行するよう訓練されてきた。ゆえに受動的にならざるを得なかった。にもかかわらず、最近では「みんな違ってみんないい」とか「個を重んじよう」などと言われる。そしてそれを実行しようものならたちまち「ワガママだ」と言われる……。「モヤモヤ」もするわけだ。

◇◇◇

話は変わるが、我が子はもうすぐ新学期を迎える。二週間ほどの春休み中は宿題もなく自由放題に過ごしているが、反面退屈で、「早く学校に行きたい」とも言っている。

そう思える子どもたちを見て「自信があるんだろうな」と私は思った。何せ、一日中だらだらゴロゴロしていても親はこれと言って何も言わないので、「顔色を窺う」必要もない。急かされることもない。つまり「ありのままの自分で生活できている」ことが、子どもの「自信」に繋がっているのではないか、と言うことだ。

そういう子育てを推奨しているわけではないし、これがいいのか私自身も分からないが、少なくとも子どもはのびのび育っていると感じる。実社会の厳しさに打ちのめされる恐れもあるが、今の社会が改変を必要としているのだとすれば、そこに自分をあわせる生き方は、時代にそぐわないのかもしれないとも思う。

◇◇◇

私が子どもの時分には「早く学校に行きたい」などと思ったことはなかったし、毎日毎日嫌々通うか、心を無にして登校していた記憶しかない。周囲にあわせることが苦痛でしかなかったが、そうしなければ生きていけないと思っていたから仕方なくそうしていた。しかしそれによって自分を失い、言われたとおりのことが出来ない経験を重ねることで自信も消滅していったのはいうまでもない。

学校ではいつも周囲の顔色を窺い、目立たないように心がけていた(実際、気配すらなかったようで「空気のようだ」と言われたこともある)。良い成績を残すことを心がけていたのも、それが学校で自分の居場所を確保するための技だったからではないか、と今では思う。100点を取っても丸暗記したものを解答しただけなので当然の結果だったし、それが自信に結びつくことはなかった。

◇◇◇

ユン氏の言葉に「職人こそ自信を持って生きている」というのがあった。自分のこだわりに従って生きており、身体に染みついた技を信じているから自信があるのだ、と。つまり職人は「自分」をよく知っている。信じられるのは自分であり、周りの目や言葉ではないことを知っている、と。

私は、入院してアドラー心理学を知る30歳くらいまでは、周りの目や言葉が自分を形作っていた。流されて生きていた、と言い換えることも出来る。しかしそれ以降は、これまでnoteで綴ってきたとおり、「他人の顔色を窺わず、自分自身を大切にする」方に舵を切って生きている。

もちろん、この社会では生きづらさも感じるが、自分に嘘をつかない生き方をしていることで、ある種の「自信」がついてきたように感じてもいる。誰かに自分を認めてもらおうとか、褒めてもらおうとかするのではなく、自分で自分を認め、いたわることが何よりも大切なのだということを今は身にしみて感じている。

◇◇◇

自分の人生なのだから、誰かに「こういう生き方をするべきだ」と言われる筋合いは本来はないのだ。そのことに気づき、「自分はどう生きたいか?」「どんな自分でありたいか?」を問い続けること。それを探しながら生きることが人生だ、とユン氏はいう。まったくその通りだ、と私も思う。

ユン氏の著書は他にも出ているので、読んだ暁にはまた記事にまとめたいと思う。

紹介した2冊をもっと読んでみたい方はこちら↓


※今回は、自分の考えを思いつくままにまとめたので、いつもと違う雰囲気かもしれませんが、素直な気持ちを綴っています。いろうたの「内なる思い」が少しでも伝われば幸いです。

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