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日記

小学生の夏休みの宿題の定番である、絵日記。
僕はこれがとても苦手だった。
絵が苦手なことに加えて、文章を書くことも嫌いだったからだ。
毎日アッと驚くようなことが起こるわけでもなく、腹筋が痛くなるほど笑う日が続くわけでもない。なのに、毎日書かされる。当時は、なぜ絵と日記を毎日のように書かされるのか分からなかったし、今思い出してみても、絵か日記のどちらかだけでもよかったのではないかと不思議に思う。先生は生徒一人一人の毎日書かれる絵日記を、一日ずつしっかり読んでくれていたのだろうか。

大学3年の夏休み最終日から日記を書いている。
どうして書き始めたのか覚えていないが、環境が変わり、自分の中で渦巻く何かを無意識に放出したくなったからだと思う。
日記の内容はオンライン授業で起こったこと、はじめの一歩を踏みだした就活で驚いたこと、趣味のこと、などなど。
読み返してみると、内容のベクトルが様々な方向に向いているため、混乱してくる。でも、多方向に向くベクトルの数々がこの頃の自分の気持ちを表しているんじゃないかと思うと、ほんの一年前くらいの自分なのに懐かしさもあって、微笑ましい。

日記を書いているおかげで、大学で授業のコメントを書いたりレポートを執筆したりすることに苦手意識を持たなくなった。
授業がオンラインになり、課題が増えたと言われているが、書くことに苦手意識がなくなったせいか、個人的にそこまで影響がない。
今まで400字書くことさえもうんうんと唸りながら、やっとの思いで文字数を埋めていたが、今では3000字のレポートを目の前にして、文字数多いなぁ、面倒だなぁと思いながらも、気付けば書けてしまう。1年ちょっと前から考えたら大きな成長である。

日記を時々読み返すのだが、「このときこんなことがあったのかぁ」「あ~あこんなこと言っちゃって、この後痛い目見るぞぉ」なんて思いながらじっくり読んでしまう。
できれば輝かしい過去の話を読みたいのだが、僕には錆びている、鋭利な金属片のような過去ばかりである。日記を書いている期間には思い出したくない記憶もある。そんな日々の中でも、控えめながらもほんのりと光る日常は存在していた。

小学生の時、日記とは意味のないものと思っていたが、15年以上経ってようやく「日々を記す意味」が分かった気がする。
日記を書き続け、文章を書くことが苦痛ではなくなり、
日々の記録を取り続けて、踏んできた道には雑草ばかりではなく、綺麗で儚い小さな花が所々に咲いていることに気付いた。
人様に見せるためのモノじゃないからと、ときには汚い文字で、頭に浮かんだ言葉をそのまま列挙し、気が乗らなかったら1行だけ、筆が勝手に進むなら2ページ、心のままにペンを動かし、一日一日、地道に記してきた。

人生は物語みたいに突然、5年後、10年後と進むわけではなく、日々の積み重ねでできている。
それはすごく当たり前のことなのだけど、実は当たり前じゃなくて、一瞬一瞬感じながら、考えて生きていくことは尊いことだと、振り返ったときに噛み締められるものが「日記」だと思う。
三日坊主の飽き性な僕が、日記を一年ちょっと、楽しく毎日続けられていることは日々積み重ねていることを実感したいからなのかなと思いながら、今日もノートの上でペンを躍らせる。

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