見出し画像

花山法皇ゆかりの地をゆく⑥〜熊野古道、熊野三山 後編〜

前編からの続きです。

2024年1月20日土曜日の14時30分、私は熊野速玉大社の駐車場を出て、雨の新宮市街地で車を走らせていた。

次の目的地は青岸渡寺である。
青岸渡寺は熊野那智大社と那智の滝が併設されており、おそらく多くの観光客にとっても熊野や南紀観光の主要な訪問地となるだろう。
花山法皇においては那智の滝で千日行、つまり三年弱は青岸渡寺で修行をして暮らしたのだから、花山法皇のゆかりの地を訪れる私にとっても重要な訪問地だ。

しかし、新宮の市街地を出て那智勝浦新宮道に入ると、雨は一層強くなった。
雨粒は小さいままだが、雨量が多くなり風も強い。間欠ワイパーでは間に合わなくなりそうだ。
こんな天気で青岸渡寺を訪れても、景色の写真は碌なものも撮れないだろうし、何も楽しくないばかりか、雨でぬれた石段で滑って転ぶ可能性だってある。
とはいえ、青岸渡寺の訪問を明日に回すと次の予定が厳しくなる。
車の運転をしながら試案をしたが、雨は強くなる一方だし那智勝浦ICは通過して、本日の青岸渡寺訪問はあきらめた。
今日はこのまま、宿泊地へ向かうことにした。

Temple Hotel 大泰寺

今回の宿泊地はお寺である。そもそも、紀伊半島の旅館は一人の宿泊者を泊めてくれる施設が少なく、この大泰寺はTempleHotelと銘打って、一人の宿泊客も受け入れていたのが選択理由だった。

しかし、それよりももっと重要な理由として、これまで毎度毎度、花山法皇のゆかりの地として数々の寺院を訪ねているというのに、仏教をあまりにも軽んじていたのを反省する意図があった。
仮にも相手は仏教を極めた法皇であるのに、それを追っている私は、阿呆のように寺を訪れては、賽銭を入れて手を合わせて写真を撮って、それでおしまいである。
それでnoteには、信仰心のかけらもない、スマートウォッチを落としただの交通が不便だの何だのといった愚痴ばかりの旅行記を書いていた。
これではいけないと思い、本来であればきっちりと仏教の修行を修めるべきであるが、勤め人である私にはそれもままならず、それでもつまみ食い程度でもよいから、仏教に触れる機会が無いかと探していたところ、みつけたのが大泰寺の宿泊であった。

それで大泰寺へ向かっているのだが、青岸渡寺の訪問を飛ばしたので時間があまってしまった。
那智勝浦新宮道の終点にあたる市屋ランプをおりたのは、15時ちょうどであった。
市屋ランプから大泰寺までは車で10分程度の距離だが、チェックインは16時と事前に伝えていた。
多数の宿泊客を受け入れるビジネスホテルであれば、チェックイン時刻が予定とずれても大抵は受け入れてくれるが、今回の大泰寺がどういう対応になるかがわからない。
電話をかければ済むのだろうが、それで早めのチェックインを断られても、この大雨ではすることもないので、市屋ランプをおりても大泰寺には向かわず、国道42号を那智勝浦方面に戻ってみることにした。
少なくとも、宿泊に中に喉を潤すドリンクは確保しておきたいから、事前にコンビニへ寄っておきたいと思っていた。
しかし、しばらく走ってもコンビニはなかった。道の駅たいじという道の駅があったので入ってみたが、あるのは野菜と海産物、それに土産物で、あてにしていたものはない。道の駅内にあるクジラ料理を出す食堂も閉店してしまっていて、時間を潰すこともできない。
車に戻りさらに国道42号を北上すると、「きよもん湯」という立ち寄り湯を見つけた。
速玉大社で雨に濡れて身体も冷えていたし、チェックインまでの時間を潰すにはちょうど良いと思われたので、迷わず「きよもん湯」に入った。
「きよもん湯」は露天風呂も変わり湯もない、銭湯と変わり映えのない施設であったが、風呂場に入ると硫黄のにおいがツンとした。かけ流しの温泉であった。
身体を洗い垢を落として、時間もちょうどよくなったので、改めて大泰寺へ向かった。

大泰寺は地図で見ると里の中にあるお寺であるが、実際に訪れると、少しばかり高台の山の上にあるような山寺の雰囲気もあった。雨はどんどん強くなる。チェックインをすませ、離れの部屋に案内された。鍵のかけ方やふろ場の案内をされて、部屋に入る。部屋で荷物を広げたのちふたたびカウンターに行き、明日の朝に予定している、座禅体験と朝粥の料金を支払った。

大泰寺では夕食の提供がない。
キッチンと食器の貸し出しがあるので、自炊はできるが、私は自炊の用意をしていないので、外に出て食事をとることにした。
しかし、この大雨である。
外出も億劫なので、「もうで餅」もあるし夕食を抜いても良いかと思ったが、紀伊勝浦駅周辺にはそれなりに食事をとれる店もありそうで、せっかくここまで来たのであるから行ってみようと思った。
雨の那智勝浦新宮道を車で北上し、那智勝浦ICで下りる。
暗い紀伊勝浦駅周辺の道を走らせて、駅周辺の有料駐車場にとめた。
周辺の店は昼間の営業が主らしく、灯りの消えている店が多いが、それでも二三割の店は灯りが着いて営業しているようだった。
事前に目途をつけていた、駐車場にほど近い「ステーキハウスひのき」という店に入る。

店に入ると、中国人の4人家族と、私と同じくらいと思われる年齢の夫婦が先客にいた。店内は鉄板を中央において客席が囲んでおり、オーナー店主と思われるシェフが鉄板で調理をしていた。着席して渡されたメニューを見たら、ディナーメニューは10,000円前後する。値段の高さにひるむが、腹をくくって8,000円の熊野牛フィレステーキを注文した。

出てきたフィレステーキは、これまで見たこともないような分厚い肉の塊であった。それを鉄板で贅沢に焼く。
食べてみると、高級な和牛にありがちな胃もたれするような脂っぽさもなく、旨い。

男やもめの分際で、高くてうまい料理を食べるのは、困る。
困るとわかっているのならば食べなければよいだけなのだが、生きていて胃腸が健康であれば、たまにうまいものを食べたくなる。高価であればうまいだろうと、つい高い食事に手が出る。
これは「おくり人」という映画の中で、山崎務が演じた葬儀会社の社長も、妻の遺影を前に食事をして、主人公に同じようなことを言っていたと覚えている。
ひとりで高価な食事を食べる罪悪感、おいしいものを食べても共有できる人間がいない寂しさ、食べることすなわち生きることへの疑問、老いて明るい未来も期待できなくなった自分へ諦念、様々な感情や思いが交錯した。

帰りに再度「きよもん湯」を訪れて風呂に入った。
離れの部屋に戻ると、すぐに眠りについた。

深夜に何度か目が覚めたが、滝のような強い雨音が止まらず聞こえた。青岸渡寺の訪問を翌日にまわしたが、この雨が止むのかわからない。明日も雨が止まなければ、青岸渡寺の訪問はまた別の機会にしようと、腹をくくって、再び眠りに落ちた。

5時に目が覚めると、相変わらず強い雨音が響いていたが、6時前に突然雨音が消えた。
カーテンを上げて外を見ると、まだ分厚い雲が空を覆っているが、雨は止んだらしい。

2024年1月21日の日曜日、今日は6時30分から予約していた座禅体験がある。
指定された座禅堂はまだ何も動いている様子が無く、寺の周りをうろついていたら、トレーナー姿の住職が現れて「もうすぐ始めますので、待っていてください」と言われた。
数分経つと袈裟に着替えた住職が現れて、座禅堂に案内された。

座禅体験の参加者は私一人であった。
住職と1対1の贅沢な時間である。

最初に座禅の姿勢について説明を受けて、その通りにする。
私は登山を趣味にしてふくらはぎが太いため、正式な座禅の足組ができなかったが、足組の姿勢は重要ではないらしい。
あぐらもできない外国人であれば、脚を床におろしても良いものらしい。

重要なのは呼吸であるそうだ。
眼は閉じずに下を見るようにして、首をまっすぐにして胸と腹を前に出し、腹式呼吸で息を吐くのを意識して、数を数えてゆっくりと呼吸をする。

実際に座禅を始めると、周囲の音に敏感になり体の感覚が鋭くなって汗がしたたり落ちるのが良く感じられる。
呼吸は静かだ。
こうしていると、昔こういう状態になったことがあったなと思い出した。
妻が亡くなり葬式を終え、火葬場で遺体を焼くために窯に入れた後、私は妻が焼かれている窯から離れることができず、ひとり窯の前で立ち伏していた。
あの時は、哀しいのだが感情は揺れ動かず、呼吸は穏やかであった。
不幸も振り切ってしまうと、感情というものは落ち着きはらってしまうものなかもしれない。
座禅は初めてだったが、この状態はその時の状態に近い。これが正しいのかわからない。

一度目の座禅が終わる。
上のことは言わずに、視界がぼやけたりしたことを住職に報告したが、そういうのはあまり重要ではないらしい。
二度目の座禅では、警策も受けてみた。
あれは音が激しい割にはいたくない。むしろ座禅で飽きたころにはちょうど良い刺激になって心地よい。
二度目の座禅が終わる。
座禅というのは苦行ではなく、こだわりなどから来る苦しみから解放して幸せになるためのものらしい。
呼吸を乱さず感情が揺れ動いていなければ、それで幸せなのだろうか。疑問は尽きないが、住職にどう問いかけてよいかわからない。

「今日の座禅をやってみて、15年前に妻を亡くしていて苦しいとずっと思っていたのですが、実はあまり苦しんではいなかったのかもしれません」
この住職の回答は、当たり前だが、死者の遺族に対する月並みな慰めだった。
これらの問答を真剣にやるには私から出した情報が少なすぎるし、別に私が幸せを得るために座禅体験を受けたわけでもないから、これで良いのだと思った。

つづいて、禅問答についての説明を受ける。
「風はどんな色か」「片手で拍手をするとどんな音がするか」など、答えが無いようであるような問答が4000件もあるらしい。
それらの回答を座禅で考えて答えを見つけて、悟りを開けたか偉い人が判断するのだそうだ。
「風などんな色か」⇒「色は光の波長を人間が目で感じるものなので色は無いのですが、色を感じるのは人間の意識で他人と共有できれば色となるので、つけようと思えば色も着きますね」とか、
「片手で拍手をするとどんな音がするか」⇒「片手では音は出ませんが、片手で拍手をした人間の糸を察すれば、そこに音はあるのでしょうね」とか、
観点を少し変えれば適当な答えはいくらでも捻り出せそうだが、こんな知ったかぶり発言をしてもろくなことにならないのは、私の貧しい人生経験でいやというほど解っているので、仏教はすごいですねという態度だけを取っておいた。

座禅堂を出ると、住職と二人で寺の敷地の横を流れる太田川を眺めた。
川幅が太く水量の多い川で流れも早い。

「この川はいつもこんな水量なのですか」
「いや、今日のは異常ですね。昨日の雨のせいでしょう」
「紀伊半島は雨が多いので、昨日の雨もこんなものかと思っていました」
「昨日の雨は異常ですよ」

座禅体験の次は朝粥体験があるが、1時間ほど空きがあった。
まだ空は雲が覆っているが、一部で雲が途切れて青空ものぞいていた。
山の下に霧がかかっている。

カメラを持って大泰寺の入口まで行こうとした。
すると、10段程度の石段が濡れてコケもはえていたためか、滑って転んでしまった。腰を打ったが、どうにか普通に歩けた。
大泰寺の入口には、樹齢400年となる樹があった。根元の幹が異常に太い。こういうところに歴史を感じる。
本堂に戻ると、住職が朝のお勤めでお経を読んでいた。お経を聞くのは葬式を思い出すので好きではない。しかし、動くこともできず、遠巻きに本堂を眺めていた。

8時30分、朝粥体験の時間になったようなので、本堂に入る。
住職が本堂にあらわれたが、まだ準備ができていないようで本堂で待っているように言われる。

本堂にかけられた掛け軸を眺める。古いものだろうが、全く価値がわからない。

少し遅れて住職が朝粥の用意を持ってこられたので、本堂の奥にある部屋に移り、席に座る。
住職は座禅の際は眼鏡をかけていたが、朝粥体験では眼鏡をはずしていた。当然、剃髪だが、眼鏡をはずすとハンサムな顔をしている。

朝粥体験では、お寺の修行の朝粥の食事作法を体験するものらしい。
修行中は、食堂(じきどう)、講堂、座禅堂での会話は禁止らしい。住職も修行中は理由がよくわからなかったのだが、コロナ渦を経て、修行で蜜となる場で感染症が広がるのを防ぐための習慣規則になったのだろうと、納得されたとのこと。
この住職、宗教家であっても規則や法を無条件に従うわけではなく、合理的な理由を考える質のようだ。
おかゆをよそっていただく際の量の指定、お代わりの要求、食事を中断する際の端の置き方、それぞれ作法がある。
最後にお茶とたくわんで食器の汚れを落とす。
食事が植物性のものだけ(おかゆ、きんぴら、たくわん、うめぼし)であるため、食器洗剤を使わなくても、これで汚れを落とし布巾で拭くだけでも問題ないらしい。
昔の人は、住職のような宗教家でなくても、こういう作法をお寺で教わって食事をしていたらしい。

食後に住職と雑談をした。

「今日はどちらへ行かれるのですか」
「昨日、雨が強くて行けなかった那智の滝に行こうと思います」
「昨日の雨のおかげで、冬では見れない太い滝になっていますよ」

青岸渡寺・那智の滝・熊野那智大社

9時30分、那智山へ車を走らせ、那智の滝の手前の駐車場に止めた。もっと上の熊野那智大社に近い位置にも駐車場があるのは知っていたが、那智の滝、青岸渡寺、熊野那智大社の3か所すべてを回るのであれば、どこに止めても変わらないはずだ。

まずは那智の滝から訪れる。
駐車場を下りた時から、滝の怒涛の音が聞こえたが、飛竜神社鳥居を抜けて石段を下るごとにその音は強くなった。
急な石段を登り返すのに、嫌々している観光客もいるが、私は滑らないように慎重に下りる。

那智の滝は、竹ぼうきのように上は細くて下に行くに従い広がる形を想像していたが、一番上の滝が流れ落ちる初めの箇所からかなりの太さがあった。まるで、日光の華厳の滝のようである。

大泰寺の住職がおっしゃったように、昨日の大雨で水量がましているのだろう。今立っている展望台にまで、容赦なく水しぶきが飛んでくる。まるで、今日の訪問のために、昨日の大雨を降らせてくれたと思うのは、思い上がりも甚だしいのだろうけど、そう思っても罰が当たらないくらいに迫力を感じた。

しかし、花山法皇が滞在中に眺めていた那智の滝は、おそらくこの滝とは違うものであるようだ。
那智の滝のさらに上流にある二の滝という小さい滝の周辺に、花山法皇が千日行で滞在していた庵があったらしい。
今回、二の滝も訪れたかったのだが、この二の滝は一般人が勝手に入れるような場所ではなく、季節限定で開催されるツアーに参加しないといけない。
したがって、今回はこの那智の滝の壮大さにだけ感心をして、ここを去らねばならない。

那智の滝を後にして青岸渡寺の三重塔を目指して坂道を登る。朝方まで続いた大雨がウソのように天気はすっかりよくなって、1月であるのに日差しが強く温かい。
坂を登っていたら汗をかいた。

三重塔は1972年に再建されたもので、内部にはエレベータが備えられていた。
入場料を払って4階までエレベータで登る。元々、三重塔は山の斜面沿いの高台にあるのだから、4階まで登っても展望に大きな変わりはないが、那智の滝を程よく遠映で眺められるので気持ち良い。ここまで滝の音が響いている。

三重塔から少し離れて、紀伊半島の観光写真でもよく見る三重塔と那智の滝を並べた写真を撮る。この景色は美しいのには違いなく、日本を代表する景色の一つに数えて間違いないのだろうが、この構図は良く出来過ぎているようにも思う。巨大な滝を背景にした朱色の人工物である三重塔が、人間の偉大さと思い上がりを表しているようなむず痒さを感じる。たとえば、同じように日本の代表的な景色として知られる、富士山をバックに新幹線が横切る東田子の浦の景色も、これも自然と人工物の混合に違いないが、あれは富士山の大きさ雄大さに対して新幹線は小さいし、東海道新幹線は白と青のカラーリングだから、人工物が奢っているような印象は受けない。三重塔の朱色の塗装が派手過ぎるのだろうか。しかし、明るい色でなければ景色に映えないだろうし、これはこれで良いのだろうと納得する。

続いて、青岸渡寺と熊野那智大社を参拝する。

比叡山や書写山もそうだし、関東であれば規模は小さくなるが高尾山や御岳山もそうなのだが、生活するのも不便であろう山の中であるというのに、ましてや自動車や重機も無い時代に、よくもまあこんな巨大な寺社仏閣を建てたものだと感心するし、呆れもする。人間の信仰心というのは、かようなものなのだろうか。

青岸渡寺には花山法皇の御詠歌の歌碑と、花山法皇の御幸の様子を記した看板もあった。

補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬

この御詠歌は、旅行が一般的ではなかった平安時代でも、熊野には参拝者が多くいたことを表しているらしいが、すると、平安時代は現代で推定されているよりも大分豊かな時代だったのではなかろうか。
旅行は時間ばかりを浪費して特に生産性のない行動に違いないから、食料生産にゆとりのない社会では、大きい半島の末端にある山中の寺へ多数の参拝者が訪れるなんてできないはずである。
しかも当時は、移動手段は徒歩かせいぜい馬だったのだから尚更だ。
そもそも、いくら那智の滝がすばらしいとはいっても、こんな山奥に寺と神社を建立したのだから、1000年前でもなかなか侮れない時代だったのかもしれない。

余談だが、私が住んでいる千葉県の房総半島の南端には、那古寺という坂東三十三札観音の結願寺、西国三十三所でいうところの谷汲山華厳寺の満願寺に相当する寺があり、那古寺の御詠歌は青岸渡寺御詠歌の派生歌のようになっているのだが、派生元への敬意が足らない哀しいものであった。

補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸打つ浪を 見るにつけても

口直しに、私が良いと思う和歌も紹介したい。
花山法皇が那智の滝について詠った和歌は、青岸渡寺の御詠歌よりこちらの方が良いと思う。

いはばしる 滝にまがひて 那智の山 高嶺を見れば 花のしら雲

花山院菩提寺の御詠歌もそうだが、後半の七七で視点が変わる構成となるのが、どうやら私の好みらしい。
特に今日は水量が多く水しぶきが多かった。花は見れなかったけど、水しぶきで眺めた景色がぼやけていたのは、1000年の時を超えても何も変わらないらしい。

熊野那智大社の宝物殿も入場した。
入場料300円。
中は狭く、学識のない私にとっては、特に興味のあるものは無かった。

霊符山大陽寺

那智大社の参拝を終えて駐車場に戻ると時刻は11時になろうとしていた。那智大社の周辺観光に1時間半ほどかけていたことになるが、私は坂道を比較的早足で歩いたので、標準では三か所をすべて回ると2~3時間はかかるのかもしれない。
次の予定であるが、ここから北へ120km以上走った先にある三重県の霊符山大陽寺に行くかどうかを悩んでいた。
今日の朝に本日の予定を立てる際、大陽寺を訪れるとすると、帰りの飛行機に間に合うようにするには、青岸渡寺を11時までには発つ必要があると想定していたが、ちょうどそのボーダーの時間であった。
大陽寺を諦めた場合ば、あとは熊野古道でいうところの大辺路、紀伊半島の南岸沿いに串本あたりを回って、のんびりと海産物に舌鼓を打ち温泉に浸かって帰ろうと思っていた。
こののんびりプランは魅力的で捨てがたいのだが、しかし、この旅は花山法皇のゆかりの地を訪れる旅である。
大陽寺に必ず行くと決めていたわけではないが、今回の機会を逃すと大陽寺のためだけにもう一度紀伊半島を訪れなければならない。
そのような面倒を嫌った理由もあるが、計画上行こうとしておいたものは行っておいた方が良いと思い、意を決して霊符山大陽寺をナビの目的地に登録する。到着予定時間は14時を回っていて、本当にこの時刻に到着すると帰りの飛行機に間に合うのかわからなくなるが、それでも大陽寺に向かおうと意を決して駐車場を出た。

車を北へと走らせる。
飛行機の時間を考えて、14時までに大陽寺にたどり着けなければ、そこで引き返すつもりであった。
熊野古道でいうところの伊勢路にあたる道だが、自動車道は内陸のトンネルを突っ切って走るし、自動車道がないところも防砂林や堤防で海岸はあまり見えない。しかし、たまに見える海岸は、エメラルドグリーンに輝いていて美しい。湘南の黒い海とは全く違う。
日本に住んでいて美しい海岸での海水浴を求めるなら、沖縄やハワイなんぞに行かず南紀地方で良いのではないかと思う。

車を走らせていると腹が減ってきた。そういえば、今日の朝食は朝粥だけであった。青岸渡寺横の土産物屋でソフトクリームを食べたが、あういうものはむしろ食欲を促進させる。カレーライスのような俗っぽいものを食べたくなった。
しかしこの時に走っていた国道42号線沿いは食事をとれる店が少なく、走っていても空腹ばかりが募っていく。そう思って車を走らせていると、道の駅の看板が見つかったので、車を止めた。

11時40分、道の駅熊野花の窟に到着。
花という字が花山法皇を連想するが、特にゆかりはなさそうだ。
駐車場で車を降りると、1月とは思えない暑さを感じた。

道の駅の食堂には、お目当てのカレーライスもあったのだが、きつねうどんとめはり寿司のセットを注文した。
昨日に引き続き、また、めはり寿司である。とくにめはり寿司を気に入ったわけではないが、旅で土地の食べ物をみつけると、どうにもそれにこだわって何度も食べようとする習性が私にはある。
かつてネパールを訪れたときは、日本食だって洋食だってあるのに、狂ったように現地食のダルバートばかりを食べていた。
うどんも真っ白なものではなく、いざなみ米という古代米を含んでいるようで、黒い雑穀のようなものが混ざっているもので、コシは無いけどモチモチした食感の不思議な味だった。

食事を終えると、道の駅に併設している花の窟神社、というか花の窟神社に道の駅を併設したのだろうが、とにかく鳥居をくぐって花の窟神社も参拝した。

この神社は日本最古を謳っているようだ。神社に道のようなものはなく、岩や木といった自然の者が御神体であるらしい。日本の古来の神道に即した神社のかたちなのかもと思えた。

さらに車を北に走らせる。
紀勢道に入ると、トンネルばかりが続く道となった。
走っていても退屈なのだが、この道があるからこそ、たった二日のスケジュールで熊野三山に加えて奥伊勢の大陽寺まで訪れられるのだから、感謝こそすれ恨み節を言われる謂れなどはないのだろうが、それでも車の運転をしていると退屈だ。まだ、座禅をしている方が良い。
大宮大台ICで紀勢道をおりて、県道31号線を西に走る。いかにも日本の田舎道といった感じだ。
岩手の県北の内陸部の閑散ぶりを思い出した。

県道32号から国道422号にはいる。コンクリート製の大陽寺の門が国道の入口に構えられている。それなりに格のあるお寺なのだろう。
県道から国道に入るというと立派な道になりそうだが、この国道は酷道と書くのにふさわしい、一部は対向車との離合もできないような林道に毛が生えたような道であった。

13時20分、国道422号は開けた里に入り、国道らしい二車線道に変わるとすぐに霊符山大陽寺に到着した。
花の窟神社と違い、車を降りるとひんやり寒さを感じる。車の計器が表示する外気温でも、花の窟神社の時は18℃になっていたが、ここでは13℃まで下がっていた。

入口の看板には、花山法皇が989年の西国三十三所巡礼の折に訪れた旨が書かれている。青岸渡寺の西国三十三所巡礼の年代と矛盾するが、この点についての私の見解は前編で述べた。それ以上に、ここに十七日間も滞在をしたという記載があるのだが、これはどうにも解せない。
ここは主要街道沿いでもなければ、田畑の収穫が多いとも思えない山あいの人口も少ない里である。法皇とはいえ従者も含めた修行僧や官僚の集団が、このような場所に何日も居座られたら、食料や寝床を提供する農民たちはさぞや困ったのではないか。
珍しい訪問客に喜びもしただろうが、長く滞在されるて、受け入れる側の負担も増えると、さっさと伊勢でも吉野でも行ってほしいところだ。

ここから、西へ60km進めば吉野の金峯山寺がある。
花山法皇が看板にある通り西国三十三所巡礼は、比叡山から青岸渡寺までは記録上から西海岸である紀伊路から中辺路を経由した可能性が高い。
この地を西国三十三所巡礼中に訪れたとすると、青岸渡寺を出発して紀伊半島を東海岸沿いに北上した後にこの霊符山にたどり着いたと思わる。
ここを発った後は、さらに西へ進んで、金峯山寺は三十三所に含まれないから立ち寄ったかはわからないが、二番以降の各寺を巡ったのだろう。
しかし、吉野から先は、当時はおそらく朝廷の影響力が強くなる地域であっただろう。初めて朝廷とは縁の薄い場所を歩いて花山法皇は解放感に浸っていたが、ここにきて改めて朝廷の影響力が強くなる場所を前にして、何か思うところがあって停滞したのか、あるいは怖気づいたのだろうか。

大陽寺には先客の参拝客が一人いた。挨拶をされたのでこちらからも挨拶をし返す。
石段をぼって本堂に着くが、人の気配がない。左手に住職が住んでいるらしき家屋があるので、人はいるのだろうが静まり返っている。

右手にはいかにも現代っぽい水子供養観音像が立っていて、こんな小さな山村の寺にそんなものが必要なのか不思議ではあったが、その奥には鳥居があって、さらに山の上に道が続いていたので登ってみる。

一部は石段やコンクリートの階段が備えられており、鉄製の手すりもあるので、整備は行き届いているようだが、思いのほか険しい道だった。

山道を登りきると、奥之院と書かれた山門があり、お堂が備えられていた。

花山法皇の訪問時に大陽寺はなかったのだから、ここで何かしらの修行をしたのだろうか。
そう思って周囲を見回すと、周りの山は人工の植林による杉林ばかりで、まもなく盛大に花粉を飛ばすであろう杉の花で山は赤々としているが、この山だけは原生林が守られていた。

私は霊感に関してはほとほと疎い鈍感な男なので、このような山に登ってもただの低山としか感じないが、登る人が登れば、それなりの意味がある山なのかもしれない。

車に戻ると13時50分になっていた。ナビの目的地を南紀白浜空港にセットすると、なんとルートは紀勢道から京都大阪を経て阪和自動車道経由となっており、到着予定時刻も18時40分となっていた。
ルートも酷いが、これでは帰りの飛行機にも間に合わない。
しかたないので、ナビに目的地を設定しないまま、来た道を引き返して南紀白浜空港を目指した。

この帰りの運転は、帰りの飛行機に間に合うかどうか、ずっとヤキモキしていた。
この旅の当初から大陽寺を訪問先に組み込んで計画を立てたのならば、レンタカーを松坂で乗り捨てにして新幹線で帰る計画ができたし、その方が余程楽だっただろう。
そもそも、飛行機とレンタカーの旅行であれば、最初か中盤までには帰りの空港から最も遠い場所を訪れて、訪問先に寄りながら最後の空港に近づくようにルートを決めるのが定石であろう。
そのように予定を組んでおけば、後半の訪問先間の移動時間が短くなるので最後の飛行機の出発時刻に合わせやすいし、仮に時間がおしても最後の方に設定した訪問先をスキップすれば帰りの飛行機には間に合わせるように調整がきく。
それもこれも、今回の旅で大陽寺を訪れるか否かを決めきれないまま、旅を決行してしまったからなのだが、これを今更後悔しても仕方がない。

退屈な紀勢道と国道を走り続ける。
大陽寺から一切休憩を取らず、16時15分に中辺路の近露にあるドライブインに到着した。
昨日訪れた箸折峠に近い場所である。
搭乗する飛行機は南紀白浜空港を18時25分に出発するJAL218便だ。
南紀白浜空港まではまだ40kmほどあるが、白浜周辺以外は信号も少ないから、余程のトラブルがなければ飛行機の時間にも間に合うだろうと、少し早合点にはちがいないが勝ったと思い、ひとり安堵した。

それにしても、改めてGoogleMap上で今回訪れた地点を示すと、大陽寺訪問だけ無理をしたのがわかる。

17時15分、無事に南紀白浜空港に到着した。
帰りの便は先にも書いた通り18時25分出発の予定であったが、折り返し便の遅れと機内清掃の遅れの影響で、実際に飛行機が南紀白浜空港を発ったのは18時50分であった。

帰りの機内の窓からは、伊豆半島から駿河湾と三浦半島にかけての海岸線沿いのラインを、街灯りで映し出している光景が眼下に望めたのが印象的だった。

この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?