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雑文(50)「落ちる」

 落ちるんじゃないかと、不安になる。
 エレベーターに乗るといつも僕はそんなふうに思ってしまう。
 定期的に不具合がないか点検をしているのだから、たとえばワイヤーが急に切れて、エレベーターごと落っこちちゃうなんて、まさかないだろう。もちろん、まさかが起こるのが事故なわけで、滅多に起こらないとはいえ、絶対起こらないとはいえない。
 エレベーターの扉が閉まり、目的階のボタンを押すと、エレベーターは僕を乗せて上昇していく。上昇しているのがわかるのは、階ボタンの上部にあるディスプレイ、そのデジタル表示の数字が足されていくことで判断がつく。まさか下降しているとは、そんなことはないだろう。けれども、まさかが起こるのが事故で、万が一にデジタルの数字を出す基盤が壊れていて、誤作動を起こしている可能性もゼロではないだろう。だけど怖いから、僕はその増えていく数字を信じて、その密室で、落ちる恐怖に耐えて待つしかない。
 時間が長く感じる。偉大な物理学者が言ったように、僕がいま感じている時間は、他の、たとえばエレベーターに乗っていなくて、安全な歩道を歩いている人とは、時間の感じ方がちがうのだろう。だけれども、歩道が安全といっても、どこから車が暴走して突っ込んでくるのか予想がつかないから、必ずしも安全とはいえない。それに恐怖を抱く人からすれば、僕と同じ時間の長さを感じているかもしれない。
 安全は必ず保障されるものではない。
 いつなんどき、なにが起こるのか、わからないのだ。エレベーターが急に落ちる、それはありえないことではないのだ。可能性は極めてゼロに近いだろうが、完全なゼロではない。
 階は次々足されていくが、いっこうに目的階につかない。まだかまだかと、僕はあせる。落っこちる前に、早く外に出なければならない。落っこちてしまえば、後の祭りである。僕は落っこちた衝撃で頭を打ち、打ちどころが悪ければ、死んでしまうだろう。それに、落っこちるその過程の、なんともいえないあの浮遊感を感じながら、衝撃に備える恐怖の時間を、その長さを考えてしまうと、怖くてたまらない。逃げだしたい。だけど乗ってしまった以上、途中下車はできない。僕は目的階にたどり着かなければならないのだ。目的階のボタンを押した時点で、僕の運命は決まってしまったのだ。
 まだ着かない。
 さすがに時間がかかりすぎている。たしかにデジタル表示の数字は加算されていて、目的階をめざしている。だが、着かない。どういうことだろう? 僕はまさか、数字に騙されて、わざと迂回させられ、遠回りさせられているのか。誰かに遠隔操作され、僕が目的階に着くのを邪魔されているのか。これはすべて僕の妄想だ。だけれども、それがすべてゼロである、つまり否定できる根拠はないし、あるいは、それが事実だと断定できる根拠もない。けっきょくのところ僕にはわからない。いま僕は上昇しているのか、それとも下降しているのかさえ、わからないのだ。閉ざされたエレベーターの中では、僕は盲目なのだ。
 落ちる。
 恐怖におそわれる。これほど長くエレベーターに乗り続けたことがないので、その恐怖は徐々に強まっていく。落っこちちゃうんじゃないかと、エレベーターもろとも、僕は落っこちて、頭を打って死んでしまうんじゃないかと、不安に不安が重なっていく。
 落ちる。
 脚が震えてきた。寒くもないのに、震えが止まらない。ワイヤーがスッと切れて、エレベーターと共に地面に叩きつけられる場面が脳裏でくり返し、再現される。悲鳴すら発せず、僕は落っこちて、全身を打撲して骨折し、いや骨折ですまずに、頭を打って死んでしまう。僕は死んでしまう。落っこちて、死んでしまうのだ。
 泣きそうになる。いや、泣いている。デジタル数字がまだ、目的階の数字を示さない。早く早く、と僕は急かすが、一定の間隔でしか表示は切り替わらない。
 早く着け、早く着け、と僕は念じる。
 落ちるな、落ちるなと、僕は祈っている。
 
 上昇か下降かしていたエレベーターが停止し、扉が開いた。
 
 急な落下を警戒しながら、そそくさとそこから脱出しようとしたが、ブレーキを踏んだみたいに、足が止まった。
 僕の目の前に広がるありえなさに、絶句し、ぼう然と立ち尽くしてしまっていた。

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