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雑文(92)「片脚」

 川端の「片腕」か、あるいは谷崎の「富美子の足」か、老いた僕は、たまらなく欲した「片脚」を、若い女性から──、それは隠匿に近い、衝動に駆られた、僕の弱さだった。
 荒い息遣いのまま僕は、不自然に膨らんだコートの中からそれを掴み出して、シーツの乱れたベッドの上に、労わるように寝かせた。
 コートをハンガーにかけ、ネクタイの固い結び目をゆるめ、シャツの第一ボタンを外して、ようやく僕は、ここが自宅なんだと、安堵できた。
 ベランダのガラス窓は、横なぐりの激しい豪雨に洗われ、大つぶの水玉が斜め下に転がるのが、カーテン越しにわかる。
 テレビを点けてソファに腰をおろし、大雨洪水警報が発令中の都道府県エリアが赤い点滅をくり返す日本列島を背に、若い気象予報士の男が、彼の説明によると、あす明け方まで降り続き、「対象地区にお住まいの方は、自治体の避難指示に従い、慎重に行動ください。また土砂崩れや高潮にも十分ご注意ください」と、全国お茶の間に待機する僕ら視聴者らに、深刻そうな面持ちと丁寧な口調を騙って、恐怖心を刷り込むように何度も呼びかける。
 熱いシャワーを浴び、風呂場から上がって、キッチンの冷蔵庫ラックから冷えた缶ビールを取り出すとそのままプルタブを起こし、渇いた喉を潤せば、ほろ酔いのまま寝室に歩いて、ベッドに眠る「片脚」のそばに、ベッド端に腰かける。
 ベージュ繊維の隙間からは素足の白さが覗かせ、繊維をつまんで浮かせ、指一本突き刺して裂けば、ほどなく縦に破れ、それはむき出しになる。用済みのストッキングは丸めて床に放る。
 足の爪には真っ赤なマニキュアが塗られ、左に向けて段々と赤い面積が濃くなるので、それが右足だと知れる。
 僕はその若い女性の「片脚」をじっと観察し、それが、社会に酷使されず、いっさい歪さのない、未熟な脚だとわかった。

 ハンドルを握った僕の、視界不良だったのか、雨のせいで、ライトに照らされる、若い女性の大きな瞳、わずかな瞬きの後、フロントガラス上方へ消え、雨に濡れる赤い駐車灯が点滅する中、動かない女と、近くに「片脚」、なぜかそれを拾って車内に乗り込むとアクセルを踏んで、逃げた。

「片脚」を眺める僕は、なんども再生されるフラッシュバックに、マンション廊下に響くハイヒールの音、それも一拍子遅れて床を叩く奇妙さに、真っ青になる。

 取り返しにきたんだと、僕は直感する。
 そして── 玄関チャイムが、室内に鳴った。

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