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アフリカゾウにも、ラッコにもカナブンにも

自分の書いたものに悲しみの雰囲気があることを嫌だと思ってきた。
けど昨日初めて、こんな自分でよいのではないか、と思えた。

岸政彦さんがTwitterで紹介していた本、
カート・ヴォネガットについて書かれた「読者に憐れみを」を読んでいて、思わず線を引いた場所がある。
ヴォネガットの文章にただよう悲しい雰囲気について彼が語った部分だ。彼は「子どもの頃から悲しいことがいろいろあったから、それがわたしの作品の悲しい感じと関係があるんだろうね」と言っていた。悲しい雰囲気の文章を書いているのが嫌な自分にとって、この一文は大きく胸に響いた。


生身として会うわたしは、わたしの文章から他者が感じる印象よりもずいぶん明るい人間だと思う。
わたしの文章はさびしい、というか、悲しい。
それについてずっと、困るな、と思ってた。
他人に紹介しにくい。自己紹介としてわたしの文章を見てもらうと、
きっと静かで悲しい印象を持たれるのではないかと思ってきた。
わたしは実際にはうるさく、明るい人間なのだけど。

わたしに会った人はわたしのうるささを感じたことがあるはずだ。
そもそも声がでかい。身振りも大きい。リアクションもはっきりしてる。
びっくりしたり感動したりすると、いちいち声をあげ、身体が動いてしまう。よく笑う。
表情も変わる。
喜怒哀楽のうち、喜び楽しみの反応が大きい。
きっと、うるさい。決して静かではない。

でも。
わたしは自分が驚いた拍子にあげた声が、つまり震わせられた空気が、今はアイスランドやアメリカ、オランダでまた別の誰かの肺に入り、そして呼気としてまた空中を漂って地球に乗っていることを夢想する。もしかしたら、タスマニア島にいるかもしれない。ニューファンドランド島にいるかもしれない。黒く艶のある身体をしたタスマニアデビルは、わたしの右手が押しやった空気の振動をその耳に受けて振り返ったかもしれない。わたしの肺には今、アフリカゾウが吐いた息がひとつぶでもいるんじゃないか。海藻をまきつけて冷たい海で眠るラッコの、その被毛をあたたかくおおう空気のつぶが、今自分の手のひらにあるんじゃないかと、そう思わずにいられない。

声に出さない場所で私は、静かに遠くのことを思う。
こういうことをわたしは「悲しみ」の雰囲気だと思っていたけれど、実際はきっと「孤独」だ。わたしは孤独だ。ひとりがすきで、さびしいのがすきだ。
同時に、人がすきだ。大好きだ。にぎやかにするのは楽しい。そして、とても疲れる。

わたしは孤独が好きで、孤独がないとだめになってしまうけれど、だからってずっと自分の部屋に閉じこもっていたいなんて思わない。
そして、たとえ閉じこもっていたとしても本当に孤立することはできない、と思う。

世界の生物、無生物すべてをつなげる細い糸に、自分もまたつながっていることを、わたしは知識として知るより前に体感で知っていた。
無関係なものなど何もない。遠くの国で、小さなカナブンの一種が絶滅したとして、それはわたしと無関係なはずがない。

こうなると、年を取らずとも何もかもが愛しく、何もかもが平等に自分を傷つけるように感じるのだ。
小学校の帰り道、きれいな色の石ころを見つけ、その美しさに泣いたことがある。サラリーマンになって、早朝の満員電車に乗った日、抱っこ紐に入れられた赤ちゃんの濡れた瞳を見て、泣いたことがある。愛しい、と思う。愛しいと涙が出るから、わたしはしょっちゅう泣いている。おとなになっても、この感覚は薄れない。

「愛しい」は、かなしい、とも読むんじゃなかったか。
そうか、それならわたしの文章は「悲しい」のではなく、「愛しい」のかもしれない。

そう思えたから、これからも”会ってみたら予想外にうるさい人”として
愛しい文章を書いていきたい。


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