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心の成長 - 失わなくても -

「金魚すくい」の看板が、子どもたちの目を引く季節。
生き物を飼うことで子どもの心が成長する、という話はよく聞く。大切にするということ、愛着をもつということ。究極は、お世話をしないと死んでしまうという悲しみや、戻ってこない命の重みを経験することが、心の成長に繋がると解釈されているのだと思う。教育目的で飼われるなんて、生き物の立場からしたら、迷惑な話だろうけども。

私は昔、ハムスターを飼っていた。10匹は飼っていた。10歳からの8年間で、1匹ずつ飼育していたはずなのに、10匹も亡くなるなんて、酷く飼うことが下手だったと思う。
それぞれのハムスターに名前はつけていたが、全てのハムスターの愛称は、ピーちゃんだった。その時点で酷いと思う。だが、当時は当時なりに、とても可愛がっていた。今思えば、なでまくり、家中を転がるオモチャで散歩させ、頬袋に何個ひまわりの種が入るかと実験し、激しすぎる愛で方をしていた。小さな体のハムスターにとってはストレスだったと思う。
1、2年生きたのは2匹だけ。寿命が2、3年であることを考慮すると、それでも短いが、ほとんどのピーちゃんは、冬を越えることができなかった。家が寒かったせいか、少しの留守の間に、みんな擬似冬眠状態になってしまうのだ。そして、うまく冬眠から起きられずに死んでしまう。
そのときはとても悲しくて、庭に埋めて、花を飾る。けれども、しばらくするとまた、新しく飼ってしまっていた。命の代わりはないのに、同じピーちゃんは戻ってこないのに、寂しさでペットショップに行ってしまう。可愛さに、癒される。そんなエゴが勝っていた。
寒くて死んじゃった、という気持ちでは、自分の飼い方が原因にも関わらず、反省ができていなかった。冬のせいだ、なんて責任逃れをしては、繰り返す。何年経っても、心も頭も成長しなかった。今のように、スマホで検索ができる時代ではなかったので、本を数冊読んで、「あったかマット」を購入し、なんとなく飼い方を見直すだけだった。

私が最後に飼ったハムスターの名前はクイック。9月19日に飼いはじめた、すばしっこい子だったから。とても安易な名づけ方なうえに、結局、ピーちゃんと呼んでいた。
冬になると、クイックも例にもれず、擬似冬眠に入った。ちゃんとあったかマットの電源は入れたまま出かけたのに、どれだけ我が家は寒かったのだろう。
カイロの上に、冷たくなったクイックを乗せ、こたつの中に入れた。(私が思いつく、素早くあたためる方法だったのだが、間違っているので真似をしないでほしい。)
あたたまってきたクイックは、ふらふらしながらも、少しずつ動きはじめた。嬉しくなって、餌をあげようと、懐中電灯でこたつの中を照らした。そのときだった。
明かりに驚いたクイックが、発作を起こし、ヒクヒクと痙攣する。慌てて手のひらに乗せて、ごめんね、戻ってきて、と、なで続けた。でも、クイックの発作は落ち着くことなく、私の手の中で死んでしまった。どんなに泣いても、どんなにあたためても、動くことはなかった。
生かそうとしたのに、殺してしまった。私のせいだ。今までからも私のせいだったのに、そのとき初めて自分のせいだと思った。それから私は、生き物を飼うことができなくなった。2度と飼ってしまわないように、ケージも回し車も給水器もあったかマットも全部捨てた。愛情をもつという意味でも、反省すべき点がたくさんあった。命を預かる資格がないと感じた。

そんな私が、2人の子どもの親になっている。ピーちゃんたちには申し訳ないことに、命がけで産んだ子どもたちのことは、何万倍もの愛情をもって育てている。飼うのではなく、育てている。
これから子どもたちも、色んな生き物を飼いたがるだろう。ただ、この子たちの心の成長のために、という気持ちで飼うことには抵抗がある。生き物にとっての幸せも考えるべきだと感じるようになったから。ピーちゃんたちが、私の心を変えたことは確かだ。

「金魚すくい」の前で、じっと他の人の様子を眺めている子どもたち。2人への愛情は、もう生き物は飼わないと決めた気持ちを揺さぶる。愛するものを失う悲しみを、知ってほしいような、知ってほしくないような。失わなくても、思いやる気持ちを育む機会はあるはずなのに。
矛盾する親心が、夏祭りの邪魔をしている。

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