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その「形式的」な運動会指導そろそろやめて一人一役「居場所」をつくる運動会に

 子供たちが意欲的に運動会に取り組んだり、学級の仲間と一体感を感じたりするための工夫を提案する文章を散見するようになりました。
 私もこのnote上で、現在その手の文章を書いている者の一人です。

 様々な運動会の指導方法が紹介され、教育行為を行う者にとって選択の幅が広がったり、よりよい方法を求めて議論が進展したりすることは、とてもよいことだと考えます。

 それを踏まえた上で、私が気になる指導方法があります。
 それは、

・運動会に対する学級内の雰囲気を、歌を歌ったり、応援グッズを作ったりして盛り上げて、一体感を感じ取らせようとすること
・運動会の目当てを書かせて、意欲的に取り組ませようとすること

です。

 気になる理由は、指導方法の背景にある指導観や教育観は、私が大切にしたいことの真反対にあるように思うからです。

 私も、雰囲気による教育の有効性や目当てをもたせることの大切さは、強く感じています。
 私も、朝や帰りの会で運動会の歌を歌わせたり、応援の声出しをさせたりすることで運動会ムードを盛り上げました。目当てをもつ場も大切にします。

 しかし、それだけでは、足りないと思うのです。この指導方法は、いかにも形式的で「教科書」通りに見えます。そして、そこには「落とし穴」があるように思えるのです。

 上は、「一体感」を感じ取らせるように「みんなに同じことをやらせる」という指導方法のようです。その「同じこと」が「歌」や「応援グッズ作り」で、果たして「どの子」も共通感覚が得られるのでしょうか。グッズを振って歌って盛り上がっている教室を眺める教師の目に映っているのは、学級集団という「かたまり」でしょう。「みんなに同じことをやらせる」から、「かたまり」に入れない子が出るはずです。すると、その子は教師にとって「外れた子」、「外れても仕方のない子」になってしまいます(本当は教師が「外した」のですが)。そして、その子を「置き去り」にして「その他のみんな」で盛り上がる、そんな「落とし穴」があるように思うのです。

 また、「どの子」も、教師の願う目当てや、その子が自分を掘り下げた上での目当てを書くのでしょうか。多くの場合、それは、運動会の勝敗や個人の成績のことになると思います。「目当て」を求められても漠然としている子供が多いと思うのです。「教師に叱られず、教師が喜ぶ目当て」を学習してしまうことになる「落とし穴」が、そこにないでしょうか。

 だから私は、この「ヒント帳」で、運動会では一人一人に目を向けるべきではないかと、書きました。体育学習の内容を「目当て」としてもたせるべきではないかとも、訴えました。
 やはり、「雰囲気による一体感」「目当てを書かせて意欲化」の指導方法は、私の対極にあるようです。

 では、陥穽に落ちないためにどうしたらいいのか、これまで書いてきたことの他に、私は次の方法を実践してきました。

 根本にある考え方は、「どの子」にも「居場所」のある運動会です。
それを具体化するシステムは、「一人一役」です。

 「役」とは、一人一人の子供が、運動会当日や当日までの間に「輝く」ことのできる「場」のことです。
 それは、これらの「場」です。

★「リレーリーダー」「ダンスリーダー」「徒競走リーダー」など
 私は、2年生以上の学級では、各演技・競技について「リーダー」を募ってきました。
 人数無制限ですので、「◯◯実行委員」と呼んだ時もありました。
 この「リーダー」たちは、教師と一緒に、あるいは自分たちだけで、練習計画を立てたり、作戦を考えたり、目当てを設定したりします。
 もちろん、初めはうまくいきません。試行錯誤の繰り返しだったり、勢いで立候補したものの「やっぱり辞める!」と脱退したりする子もいました(そういう子は、他の「場」で頑張ればいいのです)。

★「リレーの先生」「ダンスの先生」「徒競走の先生」など
 上記のリーダーは、技能面の「指導」も行う場合がありますが、必ずしもそのレベルが高いとは限りません。しかし、学級の中には、「リーダー」の役ではないけれど、技能に優れた子もいます。その子たちが、「先生」になって、みんなに教えます。
 授業での練習時には、前に出て「お手本」にもなります。
 昼休みなどには、机を下げた教室で「特訓教室」を開催します。

★「〇〇さん・〇〇君の先生」「教えられて輝く役」
 さらに、丁寧な個別指導の必要な子もいます。その子専属の「先生」の出番です。
 ちなみに、教えられる〇〇さん・〇〇君は、その「教えられる」ことが、「輝く」「場」です。教えられて上手になっていく「役」です。

※「外れてしまう子」は、逆に「外れることで輝く子」になればいいのです。得意なことで「輝く」場合も同様です。これは、「障害隠し」の考え方では断じてありません。

★「学級応援団」
 上に、私が、朝や帰りの会で運動会の歌を歌わせたり、応援の声出しをさせたりしたことを書きました。その時の応援リーダーです。

★さらに、高学年ならば、当日や当日までの「係」もまた、活躍の「場」です。
 学校によっては、「集団長」や「応援団」もあるのではないでしょうか。

 
 こうした「役」は、教師の工夫や子供たちからの要望でいくらでも作れます。数人一組で何かを運ぶレースなら、その中の一人を「グループリーダー」にしてもいいですね。

 組体操の「技」を子供から公募するなど、「全員参加型」で演技・競技を作れば、子供たちの「役」は、もっと広がります。

 そんなふうに、誰かが指示を出して学級が動いたり、教えたり教えられたり、時には衝突したりする、そういう具体的な活動の積み重ねが、子供たちの中に「一体感」を形成するのではないでしょうか。
 
 また、自分が誰かの役に立っているという思いや、運動会を創っているという自覚が、子供たち一人一人に「本当の」「目当て」をもたせるのではないでしょうか。


 ところで、上記のどの「役」にも入らない子はいないのかと思われるかもしれません。
 もちろん、います。
 そういう子ほど、教師がよく「見たら」どうでしょうか。そして、わずかな頑張りや進歩があれば、すかさず褒めます。つまり、「褒められ役」です。
 これもまた、立派な「一人一役」だと思うのですが、どうでしょうか。