見出し画像

学校のきまりを誰のために作るのか 教師のプチプーチン化

 この「学校の『神話』」シリーズでは、ある指導が「常識」化されると、結果を検証したり、目的に立ち返ったりすることが行われなくなり、手段だけが繰り返され続けることを三つの例で示してきた。
 雑駁な説明ではあったが、昭和の残滓とも呼ぶべき指導を依然として続けている学校の存在する理由について合点がいったという方もいるのではないかと思う。

 以前にも触れたように、「ブラック校則」がなかなかなくならない理由の一つは、この「神話」を生み出す学校、教師の教育に対する考え方であると、私は考えている。

 そこで今回は、ある学校での新たな「学校のきまり」作りの検討の様子をかいつまんでお伝えする。

 3月、その学校で、新年度から「学校のきまり」に新たに付け加えようと考え、検討をしていた新しいきまりは、次のものだった。

「放課後、子供が忘れ物を学校に取りに来ることを禁止する。」

 このきまりを定めようとする理由は、「忘れ物を取りに来た子供が、交通事故や不審者などによる被害に遭うことを防ぐため」であった。
 子供の生命を守るためのきまりとして、必要なのではないかということである。

 この提案に対する賛成意見が出された。そして、さらに次の考えが付け加えて述べられた。

もし、保護者とともに取りに来たとしても、認めないようにするべきだ。例外を作ると、一つ一つについて検討したり説明したりしなくてはならなくなり、面倒だからだ。」

 これなのだ。
 学校には、一度きまりを作ると、その決まりを作った理由は等閑視され、きまりを守らせることそのものや存続させることに注力してしまう傾向があるのだ。

 この付け加え案について、少し考えてみよう。
 
 放課後に保護者と一緒に来校するのなら、その子供の安全性は確保されているのではないのか。それならば、本来のきまりの理由である「子供の安全性」は担保されている。忘れ物を渡すことに、問題はないのではないか。
 
 また、中にはどうしても持ち帰らなくては困る物もあるだろう。

 仮に下校時にいくら教師が声を掛けても、置き忘れて帰ってしまう子供がいることもおかしなことではない。学校とは、そういう多様な子供たちに配慮、対応する場所ではなかったのか。たとえそれが、「面倒」なことでも。

 そもそも、「置き忘れた物」は、そのご家庭の財産である。それを、「きまり」を盾に引き渡しを拒否する権利が学校にあるのだろうか。

 こうした多面的・多角的な見方で検討することを一切拒絶してしまうところに、「学校のきまり」における「神話」形成の要因の一つがあるのではないだろうか。

 にもかかわらず、子供たちに「多面的・多角的な見方」を育てようというのだから、笑い事では済まされない。

 ちなみに、この会議では、先の「保護者引率なら安全ではないか」という反論が出て、結論は新年度の初めへと持ち越しになった。

 ところで、この「忘れ物を取りに来ることの禁止」の理由には、「放課後の教師の仕事を少しでも削減したい」という業務内容の改善を願う心情が隠れていることが予想される。

 「働き方改革」を進める過程で、その改革の中に新たな学校の「神話」作りが忍び込んでしまう危険性がある。
 次回は、そのことを考えたい。