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教師はなぜどうやって教室で子供に文学を読ませるのか

教師は、自らの教育行為の根拠を自覚していることが必要である。

1980年代に、ドナルド・ショーンが、デューイの理論に基づきながら、「反省的実践家」という新たな実践家像を提示したことは、よく知られている。

普遍的・合理的な理論・法則を単に適用するだけではもはや解決できなくなった今日の複雑な問題状況に対して、現実的な場面で問題解決を遂行する「反省的実践家」の「知」が有効であることを主張したものだ。

そのショーンによれば、専門的な実践者は、問題と役割に対して枠組み(フレーム)を用いて対処しているのだが、その自らのフレームが暗黙知であり、十分に自覚をしていない場合も少なくない。そこで、「フレーム分析」によって、「自らのフレームに気づくようになると、実践の現実にフレームを与える別の方法の可能性にも気づくことができる」という(ドナルド・ショーン,佐藤学他訳 2001「専門家の知恵 反省的実践家は行為しながら考える」,ゆみる出版)。

教師もまた、「反省的実践家」として、自身の枠組み(フレーム)に気づくことで、新たな教育実践の可能性を開くことができよう。

例えば国語科教育における文学を教材とした授業において、教師は「作品」をどのように読み教材化しているだろうか。

今、手元にある『批評理論を学ぶ人のために』(小倉孝誠編2023,世界思想社)には、19種類もの文学の批評理論が紹介されている。

「構造主義」から始まり、「物語論」「受容理論」「脱構築批評」と続き、「ジェンダー批評」「マルクス主義批評」「ポストコロニアル批評」「翻訳論」等々、これらの並んでいる批評理論に対してよく知っているものもあれば、馴染みのないものもあるだろう。

いくら教師であっても、特別に研究をしている者でなければこうした批評理論を全て熟知している者は数少ないはずだ。

むしろ、自己流で教材文を読み、授業化しているという教師が案外多いのかもしれない。

しかし、自己流と言いつつも、実は何らかの「文学を読む知識」をもって読んでいるはずである。それは、様々な考え方が入り混じった折衷主義的なものであると自らの経験に即して思われるが、それがショーンのいうところの「枠組み(フレーム)」と言えよう。

「文学を読む」といっても、教室で読む行為、すなわち教育として読むのだから、<能力=読む力>を意識した読み方をしている教師が多いかもしれない。
国語の学習指導要領を根拠にしているということになるだろうか。
また、筑波大附属小学校国語教育研究部の示す「読みの系統表」に依拠している実践も散見される。

そのように、教師は、自分がどのような考えで何に基づいて「作品」に向かい、教材として子供に提示しているのかを自覚することが重要だ。

そしてその時、もし「出来合い」の方法を用いた「読み方」「読ませ方」に問題や矛盾・葛藤を感じていたり、教師としての自分の個性や独創性を生かす実践に意義を見出したいと考えていたりするなら、自分が「読む時」・子供に「読ませる時」に大切にしたいものを体系立てて方法論化しようとすることは、譲れない選択であろう。

幸いなことに、現在身の回りには、先に示したものと同系の「批評理論の解説書」や「読み方ガイド」の類の書籍が数多くある。

私などの書棚を見ても、古くは、『小説の方法』(大江健三郎 1978,岩波現代選書)、『文学とは何か』(T・イーグルトン,大橋洋一訳 1985,岩波書店)、そのパロディと思しき『文学部唯野教授』(筒井康隆 1990,岩波書店)、最近のものでは、『本の読み方』(平野啓一郎 2019,PHP文庫)、『やさしい文学レッスン』(小林真大 2021,雷鳥社)、『物語のカギ』(渡辺祐馬/スケザネ 2022,笠間書院)などがある。

ところで、このように多くの「批評理論」「読み方ガイド」が存在するということは、どういうことだろう。

当然なことであるが、本の読み方に「正解」はないということをまず表しているだろう。

では、教室で教師がある読み方を用いて、子供と本を読むことの目的は何だろうか。

文学的文章であれ、説明的文章であれ、「このような読み方がある」「できる」という、<読み方>の一つを方法知として提示するということではないのか。

それは、単なるギミックではなく、本には<読み方>があり、方法的に読むことで、ただ漠然と読むよりも多くのものが得られることを感じ取らせること、そして将来、そうした読み方を求めたり創り出したりしてほしいという願いを伝えることではないのだろうか。

読者として新たな読み方を創出するフロントにいる人達が、様々な「読み方本」を様々に著しているということになるのだろう。

そんな現在の「読み方本」出版の隆盛状況を見ると、文学理論とイデオロギーとの結び付きがすっかり薄まり、「大衆化・一般化」が進んだことを感じざるを得ない。
だが、それでもやはり、読むことは自分と社会とを切り結ぶ行為であり、<読み方>がそのための切り口であることは確かであろう。

したがって、先の教室の子供たちへの願いは、文学を読むことで自分と社会との関わりを見つめ編み直す実践に向かっていくことを期待したものに他ならない。

それこそが、教師が教室で子供に文学を読ませる目的なのだと言えるだろう。

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