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なでしこジャパンが教えてくれる競い合うことの意義

スポーツにおいて競い合うことの本質

私は約四か月前に、この「リフレク帳」の「141」で、サッカーの国際試合におけるある国の選手の態度の問題点について言及することで、スポーツにおいて勝敗を競い合うことの意義について述べた。

ところが、数日前の女子サッカーの国際試合での同国の選手や監督の態度は、先のものとは大きく異なっており、むしろスポーツ競技のよさを具現化していたものに感じられた。そのよさは称えなくてはいけないと思われ、今回の記事を書いている。

まず試合そのものは、闘志の応酬とでも形容したくなる白熱したものだった。
両国の選手とも高い集中力を維持し、スピードや力強さを途切れることなく表現し続けるプレーであった。
「何としてもこの試合に勝利をし、オリンピックに出場したい」という強い執念が、その原動力であると見えた。

それでいて、若干のラフさは見られたものの、悪質なプレイは影を潜めていた。その逆である質の高いパフォーマンスを発揮していたのである。

さらに注目に値するのは、わずか「1㎜」の不足でゴールとならなかったシュート判定に対していつまでも抗議し続けなかったことや、試合後の監督の「審判の判定に従う」というスポーツの公正性の理念を体現したコメントであった。
この言葉に、二国間の緊張が緩和し融和路線に変更したかのように錯覚した日本人すら少なからずいたのではないか。

まさに、スポーツにおいて競い合うことが技術と精神の両面での向上に寄与をするという競技のもつ本質を鮮明に表していた試合であったと考える。

また、かの国がなぜそのように変容したのか、その理由が大切なのではなく、私たちが競争について学べるのだということを教えてくれてもいるのである。

スポーツで競争することによって学ぶ

上に示した「リフレク帳141」などで、私は教育において競争を否定する体育・運動会指導の問題性について述べた。

徒競走において手を繋いでゴールさせるような「競争否定」の教育観の背景には、学習、特にペーパーテストの結果の向上にこれまで競争原理を導入してきた経緯があったことへの反省・批判があると思われる。
資本主義社会における競争のもつ負の側面に対する指摘もあるだろう。

確かに、学ぶことにおいて競争をさせるという方法論は効果的ではないと考えられる。
学ぶことの目的は「人に勝つ」ことではなくて共同的な社会を実現するためであるという教育観や学習観に基づけば、そのように考えるのが当然であろう。

他者との競争を否定し、自分との戦いを称揚する考えに出会うことがある。
だが、自分と戦うことに疲れ挫折していくこともしばしば起きているのではないか。
競争する相手が誰であれ、競争という行為そのものが問題を含んでいることがわかる。

だがその一方で、私たちは日常において競争を避けて通ることはできない。
学級や学校生活においても、子どもたちが様々な競争の中にその身を置いている。にもかかわらず、それがあたかも存在しないかのように、競争させない体育指導をすることは欺瞞でしかなく、他者や自分を欺いて生きることを子供に教えていることになるのではないか。「リフレク帳141」で述べた通りである。

だからこそ、競争することの意義や問題点を子供たちに考えさせる指導を、競争することを通して行うべきだと主張してきた。

勝利を目指して戦うことで、仲間と協力する大切さを知ったり、相手を敬う気持ちを育んだりすることができるのだ。
また、負けたときに、それを受け止める力や振る舞い方を身につけるのである。
勝ち続ける人生はない。

私たちは競争について学べるのである。

他人や自分との競争に身をさらさねばならない状況は、今日もまた教室の中で起きている。
競争の全ての意味を全ての場合において頭から否定するのでなく、ましてや「なかったこと」にしてしまうのでなくて、その意義を子供と追求していく可能性を改めて考えさせられたサッカーの試合であった。