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映画『スチームボーイ』

画像引用:『STEAMBOY』より

『AKIRA』と同構造の説話。
力(アキラ=スチームボール)を巡る話。
どうやら大友克洋は「力の適切な運用方法」に興味があるみたい。

『AKIRA』の場合、アキラを原子力と読み替えると話がスッキリする。
原子力もアキラも「危険だけれど有益なもの」。
制御できると奢った人間には必ず厄災がもたらされ、最後には爆発する。
AKIRAでは、ラストで金田くんが「アキラはまだ俺たちのなかに生きているぞ」と言って物語は終わっていく。
この台詞は「アキラを忘れない」という鎮魂と「アキラ(とんでもない力)は俺たちの制御下にある」という政治的なカードの二重の意味がある。
核兵器もアキラも「使われないときにその抑止力・牽制を最大にする」。
金田くんもなかなかの知恵者である。

スチームボーイの話をするのだった。
スチームボールは「どんでもない力と可能性の具現」なのであるけれど、その説明に当てはまるものがこの映画にはもう一つある。
デイビッドが言うように「天才」レイ君のことだ。
スチームボール=スチームボーイなのですね。
それはスチームボールとレイ君は常に同じ場所にいることによっても説明されている。
だからこの話は自分の可能性を適切に導く物語にもとれる。

力の象徴はもちろん煙なので、煙が出るほど科学技術は高くなる(なので基本的に煙の出ていないロンドン海軍は弱い)。
力に魅せられないスカーレットだけは煙にきゃあきゃあ言って耐性がない。
この女の子は科学とか力だとか小難しいことには全く興味がなく、ほとんど「首輪をつけておくこと」だけが原動力になっている。
作中もずっとレイ君が「これすごいや」と言いたいところで必ず「それうちのもんよ」と言うところなんかはきっちり尻に敷いている感じ。
根っからのパトロンである。

ストーリーはレイ君(子ども)の成長譚なのだけれど、たくさんの「力とその欲望に頭をやられた男たち」が出てくる。
その男たちがそれぞれロールモデルの役割を果たしてレイ君の成長を導いていくのかと思いきや、困ったことに反面教師しかいない。
強いて言うなら最初にハンマーを手に登場するピートさんが正当なロールモデルだろう。

圧力を適切に利用できているキャラクターはレイ君ただ一人。
彼が制御できるのは二人の父(父と祖父)の葛藤を己の身に引き受けているからだと思う。
父は「科学の発展に貢献するなら何をやってもいい」、祖父は「言ってることはまともになってきたけれど、頭が硬すぎる」。
どちらもある程度は正しいし、少しずつ間違っている。
レイ君は行き当たりばったりに父のところに行けば父の仕事を手伝い、祖父に会えばスチームボールを持って逃げてしまう。
その間にこの二人を見ることで「科学の正しさってこの辺だろうな」という見切りをつける。
科学とはどうあるか、これから科学者・発明家として身を立てていくための規範を形作るのだ。

ちなみに、ハガレンよろしく右手をサイボーグと化した父(エドワード!)と半裸の祖父は図像的にも進歩と退歩を象徴している。

スチーブンソンさんは科学(力)とは「どう使うものか」に対して常識的な答えを持っているから、この人ならボールを託しても良さそうだとレイ君は思う。
結局、彼も大人の都合でボールを使うのだけれど。

この映画もキャラクターに緊張感のない大友節が満載。
こちらの緊張感もなくなってくるんだけどね。
でも、あの緊張感のなさは嫌に迫力をもつ絵と相まって恐怖に変わってくる(おいおい、まともな奴いないじゃん。まずいんじゃない?)。
スチーム城が動き出してからが結構長いのだけれど、失敗とか損害とかってそれを止めるまでにもうんと時間が掛かるし、元通りにするにはそれこそ倍以上の人手と時間と知恵が要るんだよな。
このあたりの時間感覚は現実的だと思う。
単に一括りに冗長とまとめられない。

そして最後は爆発。
でもアキラとは違って、単なる爆発じゃない。

この映画は2004年に公開。
その7年後に爆発した原発を見た大友先生はどんな顔をしただろう?

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