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お盆を前に考える、死者とのコミュニケーション<記憶>

何ら情報が伝わらなくとも、そばに寄り添う、時間を共有する、などは立派なコミュニケーションと言えます。

ゆえに、コミュニケーションは、表面的な技術ではなく、実は、真心の問題です。

また、共感などの、一方的なコミュニケーションもあり得ると思います。
たとえば亡き師を思う気持ち、これは仮に届かなくとも真心です。

もし、それが成り立たないとすれば、墓参や弔いなど、死者とのコミュニケーションが成り立たないことになります。

思い出(=記憶)の中のコミュニケーションもあり得ます。

物理的に届かなくとも、利他の気持ち(=共感)には意味があると思います。

届いているのか確かめようがないけれども、感謝の気持ちで訪ねる(=思い出す)ことを「弔い」と呼びます。

古語では、
とむらい=とぶらい=訪い です

ゆえに、温かく思い出すことは、とむらい です。

生者と死者は、記憶でつながっています。
死者も我々を記憶しています。

「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪(とぶら)え」
『安楽集』道綽(562-645) 親鸞訳(教行信証に引用)

以上です。

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