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京から旅へ/インド仏跡巡礼(37)/サルナート②サルナート遺跡公園

サルナート遺跡公園は、緑が豊かな美しい場所である。

一万六千坪の広い公園の周囲には高木が茂り、地面は芝が敷かれ、
掃除の行き届いた園内には、数多くの遺跡群が遺されている。

サルナートは、釈尊(ブッダ)が五人の修行僧に初めて教えを説いた
“初転法輪の地”であり、仏教の教団化が始まった場所でもある。

その後は、仏教の教育センターとして長い歴史を刻み、幾度も
他民族の強奪や破壊にあったが、その都度、復興をとげている。

だが最後は、1206年にデリーでイスラム王朝を開いた奴隷出身の
アイバック将軍の軍団により、廃墟とされた。

サルナートの歴史は、仏教盛衰の歴史。故に遺跡も多いのだろう。

公園内には二つの塔(ダメーク大塔、ダルマラージカ塔跡)を初め、
奉献ストーパ群、アショカ王の石柱があり、考古博物館もある。

博物館では、紀元前三世紀のアショカ王の石柱に飾られた四匹獅子
像や、5世紀グプタ王朝時代の名作である初転法輪像が観られる。

グプタ様式の石仏は柔らかく肉感的、かつ気品と優美さを感じるが、
此処では、そんな美しい、仏陀や神々の像が多数、保存されている。

さらにスリランカ寺院と呼ばれる建物の内壁には、釈尊の生涯が、
日本画家の野生司香雪画伯によって描かれていて、見ごたえがある
遺跡公園だ。できれば帰り際でなく、ゆっくり訪れたい場所である。

私たちは、短く芝の刈られた公園内を歩き、初めに煉瓦造りの奉献ストーパ群を眺めながら、奥で待つ、釈尊(仏陀)が初めて法を説いた場所と云われる、ダルマラージカ塔跡へと、歩みを進めて行った。

綺麗に区画された奉献ストーパ群では、低い遺跡が多く見られたが、
さすが“初転法輪の地”だけに、修行者や信者達のお参りが多い。

しばらく行くと、大きめの遺跡の前に30人程の人が集まり、熱心に
経を唱えているのが見えた。

前列には茶色の僧衣を着た人々が座り、少し間を開けた後ろに、
白装束の一団が深く頭を垂れて並んでいる。

熱く、陽に焼けた、煉瓦に染みいるような、読経が続いていた。

ダルマラージカ塔は、3世紀にアショカ王が初転法輪の地である事を
記念し建てたが、今は塔は無く、低い円形の基礎だけが残っている。

過去、この塔は何度も他民族の侵入で破壊されてきたが、今の姿に
なったのは意外にも1794年、隣のベナレスに市場を建設した時だ。

塔に残った煉瓦や石材等の資材が、解体され再利用された為である。

仏教の聖地サルナートで初めて教えを開いた、記念建築の資材が、
ヒンドゥー教の聖地ベナレスの市場を開く為に、使われている…。

皮肉で残酷な、時の流の悪戯である。とは言え、釈尊が修行者達に
初めて法を説いた時も、此処には何も無かったはずだ。

多分、森の開けた所か樹の下で、釈尊と五人の修行者は車座(円)に
なって、説法と云うより、話合いがされていたのではないだろうか。

釈尊は、上から目線で説教をする人ではなく、彼らも一緒に苦行した
仲間だし、まだ師弟関係もないので、きっと車座で話をしたと思う。

夜は満天の星の下で眠り、朝は小鳥のさえずりに起き、話は続く。


釈尊の説教は良く、対機説法とか、応病与薬と云うが、話す相手の
立場や理解度に合わせて、分り易く法が説かれたようだが、

しかし此処、サルナートで、釈尊(仏陀)が五人の修行者と再会し、
初めて法を説いた時は、いささか勝手が違うと思う。

何故なら修行者達は、釈尊が苦行から逃げ、乳粥を食べた堕落した
人間だと決めつけて、聞く耳など持たなかったからだ。

確かに彼らは、傍へ近づく釈尊のオーラに圧倒され、反射的に歓迎の
意を表してしまったが、心の中ではまだ、釈尊を認めた訳ではない。

いったい、釈尊が五人の修行者に説いた教えは、何だったのだろう?

何で「苦行、命」の彼らが、釈尊の教えを信じ、変ったのだろうか?

何で、釈尊の教えは彼らに気づきを与え、一人ずつ悟りを開かせ、
仏教の教団化へと突き動かせたのだろう? その釈尊の教えとは?

何でかな?、ナンデカナ♪、と、そんな凡夫に応えるように、

釈尊(ブッダ)、かく語りけり。 と、続く、のである。

インド仏跡巡礼(38)へ、続く

(2015年8月19日 記)

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