【書評】いとうせいこう『想像ラジオ』

 いとうせいこうとは一体何者であろうか? 筆者はそう思わずにはいられない。それだけ多才だということである。寺山修司のように、「本業は?」と問われれば、「いとうせいこう」と返ってきそうなぐらいである。タレント、作詞家、ラッパー、俳優、小説家、ベランダ園芸家、いずれもいとう氏の肩書きである。『夜霧のハウスマヌカン』という謎の曲の歌詞を書きヒットさせたり、日本語ヒップホップの先駆のように扱われたりもする。
 筆者がいとう氏の小説を読んだのは、本書が初めてである。河出書房新社発行の『文藝』2013年春号に掲載されたのを見て、いとう氏がテレビタレントである(ことはかねてより知っていたが)と同時に小説家であることを初めて知ったのである。それもそのはず、いとう氏は、『ノーライフキング』(1988年)を執筆して小説家としてデビューし、『去勢訓練』(1997年)を最後に、以後十六年間小説を執筆しなかったからである。いとう氏曰く、スランプとのことだったが、本書が『文藝』に掲載された際には、同誌がいとう氏の顔写真を表紙にするほどの大きな騒ぎとなったのである。十六年もの空白があったためか、本書はその年に芥川賞の候補作となったのである。いとう氏は、本書でその年の小説にまつわるありとあらゆる賞を受賞したのであるが、芥川賞の受賞には至らなかった。芥川賞は原則として純文学の若手作家の作品が対象となるのだが、実際にこれまでに受賞した作家がどういう経緯で受賞したかを見ると、原則通りとは限らない。いとう氏は、十六年間の沈黙の上、デビューしたのが1988年であり、候補となったのは、二十六年目のことである。筆者が覚えている限り、どの選考委員も上記の原則を度外視して選考に臨み、作品の内容から受賞に至らなかった。当時、文芸批評から距離を置き本格的に柳田国男を論じ始めることになった柄谷行人氏は、本書を『ノーライフキング』と同様に柳田だとし、芥川賞を受賞しなかったことについて、「選考委員は何考えてんだ」とユーモアを交えて言っている。(柄谷行人×いとうせいこう「先祖・遊動性・ラジオの話」、『文學界』2014年1月号)。いとう氏は、第三章以降は柳田の『先祖の話』を参照したことを認めているが、筆者としては、極力周辺の資料を遠ざけて批評していくつもりでいる。
 本書は、生者と死者との交流が主題であり、小さな海沿いの小さな町にある高い杉の木に引っかかったままラジオを放送するDJアークとそのラジオを聴こうとしてもなかなか聴けない「私」と名乗るSのことが章ごとに交互に描写されている。第一章では、DJアークのことが描かれている。DJアークが放送するラジオは、ラジオ局もスタジオもスポンサーもなく、その放送が聴けるのは、各人の想像力によってであり、つまりは想像力こそが電波となる。DJアークは三十八歳で、年上の奥さんと中学二年の息子を持つ。冬の長い小さな海沿いの小さな町に生まれ育ち、米屋の次男であったが、中学生の頃にラジオのマニアックな音楽番組を聴いたこともあって、三流大学に入り上京し、仕送りでエレキギターを買って、アフリカン・ビートを取り入れたバンドに加入したものの芽が出ず小さな音楽事務所で新人アーティストのマネージメント業に精を出す。そこで十数年勤めた後、年上の奥さんを連れて故郷に帰る。だがその日のうちに高い杉の木の上に引っかかり、そこでラジオ放送をすることになった。そのラジオ放送でDJアークは、喋りたいことを喋り、様々なジャンルの音楽を流し、想像力によって聴くリスナーからのメールを読み上げる。DJアークは、中学校の同級生だった前田さんからのメールによって、自身の身に起こったことを知らされる。立っていられないほどに部屋が揺れ、六メートルほどの津波が町を襲い、そんななか一本の木に引っかかっているのを見たというものである。
 第二章では、「私」と名乗るSのことが描写される。Sは作家であるが、大きな東北の災害から半年後に宮城に、さらに一年後に福島にボランティアに行ったことを契機に、ある樹上の人の存在が気になっていた。それはラジオの声となって聴こえることがわかったが、耳の治療をしてもSにはその声が聴こえない。第二章では、福島でのボランティアを終えたその夜の帰りの車のなかの様子が描かれている。車内にはSの他に、Sより年上の写真家ガメさん、背の高い若者の木村宙太、助手席に座るリーダー格のナオ君、運転する色白で背の低いコー君の合わせて五人がいる。写真家のガメさんがSの樹上の人の声についての話を聞き、自分はボランティア先で妙に明るい調子の男の声が聴こえたと話したことを契機に、リーダー格のナオ君と背の高い木村宙太との間で口論が始まる。詳しく触れるつもりはないが、大雑把に言えば、ナオ君が無関係な者が土足で心の領域に入り込むべきではなく、生きている人を第一に考えるべきだと主張するのに対して、木村宙太が誰かに話すべきではないが、亡くなった人の声を自分の心のなかで聴き続けることを禁止するべきではなく、聴き続けなければ、その行動も薄っぺらいものになると反論するというものである。やがて二人の口論が終わりしばらく経って、運転手のコー君が恐る恐る口を開く。ラジオのスイッチを切ったはずなのに、雑音混じりにアントニオ・カルロス・ジョビンというボサノバの巨匠の『三月の水』という曲が聴こえ、また、ガメさんが聴いたような男の声も聴こえたという。だが、Sには聴こえなかった。男の声を聴いたのは、ガメさんとコー君の二人だけであった。
 第三章で、再びDJアークの場面に戻る。中学校の同級生だった前田さんのメールによって自分が置かれている状況を理解したDJアークのもとに水難の様子を伝えるリスナーからの電話が相次ぐ。その様子をリスナーに伝えた後、DJアークはこの放送がまったく聴こえない人もいると考え、『想像ラジオが聴こえないのはこんな人だ』というコーナーを設け、聴こえない人の人物像を想像して、それをリスナーに伝える。だが、そのコーナーの最中でもDJアークは、自分の奥さんのことばかり考える。高い杉の木の上に引っかかっても奥さんからの連絡がないからである。姿は見えないが、父ちゃんと兄貴が木の下から声を掛けに来たにしても。その場に留まってラジオ放送を続けることになったDJアークは、八十二歳の大場ミヨからのお便りを読む。それによれば、主人がDJアークに伝えたいことがあるから主人に代わるとある。主人の大場キイチの脳裏に「魂魄この世にとどまりて」という言葉が去来しており、DJアークを含め誰しもが思い残すことがあって、魂魄があの世へ向かえない状態にあるとする。またキイチは、想像ラジオが基本的にこの世を去った者にだけ聴こえ、参加できることを指摘し、その上で、DJアークが奥さんと連絡が取れないのは喜ぶべきことだと伝える。つまり、奥さんは無事だったということである。
 第四章でまたSの場面に移る。詳しい内容にまで触れるつもりはないが、終始不倫関係にある女性との電話での会話が続く。しかも、驚くべきことに、その女性は大震災の半年以上前に事故によって他界していた。つまり、Sは死者の世界の人と電話で会話していることになる。Sが発明したいかにも作家的な方法で。Sによれば、死者は生者がいなければ成立しない。だがそれは、生者による観念を指すのではない。また逆に、生き残った人の思い出も死者なしでは成立しない。つまり、Sは生者と死者とは一方的な関係ではないと言いたいのである。したがって、Sが発明したのは次のようなものである。生者は死者のことを四六時中思いながら生活し、死者は生者からの呼び掛けを基に存在し、生者を通してものを考えるということである。Sにも、そして死者であるはずの不倫関係の女性にも、想像ラジオの声が聴こえない。そこでSは、もし聴こえた場合に一曲リクエストすると言い出す。それは、レゲエの神様とも称されるボブ・マーリーのレゲエではない聖書に基づいた『リデンプション・ソング』というR&Bナンバーだった。
 第五章でまたもやDJアークの場面に戻る。喋ることが尽きそうなぐらいに何日も喋り続け、リスナーからのメールを読み上げ続けるDJアークだったが、昨日か一昨日の夕方に自分の親父が再び木の下まで来たことをリスナーに伝える。兄貴と同様に葬儀が済んだが、自分の息子のことが心残りだからだという。この場所には放射能が降り注いだ可能性があり、息子を見捨てて行くことができないらしい。だが、自分にも一つだけ心残りがあると伝え、DJアークはしばらくそこに留まる。その心残りとは、もちろん奥さんと息子のことである。それから、DJアークは息子との思い出話をリスナーに語り、奥さんと息子の声を聴きたいが聴けないと嘆く。それが心残りである。そしてDJアークは一か八か、リスナーの前で耳を澄ましてみる。しばらくして、DJアークは再び喋り出す。声は聴こえたようである。心残りがなくなったDJアークは、想像ラジオの放送を終え、身体が浮遊し、裏山へ帰る。最後のリクエスト曲はSからのボブ・マーリー『リデンプション・ソング』。ラジオの声がようやくSに届いたようである。
 以上が『想像ラジオ』のあらましであるが、いとう氏自身がテレビタレントやラッパーとして活動していることもあってか、DJの描写は非常に見事である。リクエスト曲を紹介するにしても、村上春樹氏の小説群の主人公のような嫌味ったらしいスノビズムがない。DJの職業柄そうなるのかも知れないが、この点には好感が持てた。
 ただ筆者は本書を森を眺めるように読むとなると、そう肯定的なことばかりは言えない。また細部に立ち入ることになるが、第四章でSが生者と死者との関係性を語る場面があったが、本稿ではごく簡単に要約してみせた場面であるが、要約を抜きにして読むと、どうも都合が良すぎるように思える。第四章の内容が、だいぶ柳田国男に拠っているにしても(同前柄谷×いとう「先祖・遊動性・ラジオの話」)。
 DJアークの軽妙な語りもあってか、物語の全体がどうも浮ついているようにも、テレビドラマやそこら辺の通俗小説のように必ずと言ってもいいほどにハッピー・エンドに事を運んでいっているようにも見える。DJアークが奥さんと息子の声を聴き、心残りがなくなり、裏山へ帰る場面や最後のリクエスト曲にボブ・マーリーの『リデンプション・ソング』が選ばれたこともその印象を強くしている。先の対談でも、いとう氏は、放射能の影響で裏山に人がいない可能性もありうると言っているが、小説の発表から一年も経ってから言うのもどうかと思われる。ならば、ボブ・マーリーの『リデンプション・ソング』が最後のリクエスト曲に選ばれたというのも、それは、Sが、物語の文脈から言って死者となったことを意味するのだろうか。
 本書は、東日本大震災が起こったことで書かれたものとも取れるが、芥川賞の受賞に至らなかったのも、筆者がここで挙げたような疑問が選考委員の間にもあったからだろうと思われる。この点について、筆者からは何も言うことはない。柄谷氏が何を言おうとも。
(河出書房新社、2013年3月刊、後に河出文庫)

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