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シンエヴァ感想に対する感想 ~エヴァが孕むアンビバレンス~

 『シン・エヴァンゲリオン』見ました。いやあ、めちゃくちゃよかったですね。

 圧倒的映像美に、TV版・EOE以来蓄積されてきたキャラ達の物語に次々とケリをつけていくそのストーリー。鑑賞直後は「すごいものを見た」という感想以外思い浮かばないような、ただただ圧倒された気分になりました。

 その「すごいものを見た」という衝撃をここでひたすら言語化するのも有意義だと思うのですが、このシンエヴァについて私が心をとらわれたのは、シンエヴァという作品自体に対してだけではありません。というのは、映画鑑賞後いろんな人たちの感想を読ませていただいたのですが、その中には以下のような、シンエヴァという作品を手放しでは受け入れない感想も散見されました。例えば以下の記事。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で成仏できない人のために

②シンエヴァ感想:映画の中に取り残されたオタク。

 一つ目の記事はTwitterでもバズっていた記憶がありますが、これら記事の要旨は、すなわち「シンジの成長は私たちにとって遠いものである」というものです。他者との、社会とのかかわり方に苦しんでいたシンジは私たちにとっての似姿だった。しかしそのシンジがこのシンエヴァでは一気に成熟してしまい、私たちは取り残されてしまった・・・そんな感慨です。

 さらにこのシンジ君の急成長を、「現実における監督自身の鬱からの救済が重ね合わされただけのもの」と解釈し、創作(虚構)としての評価には値しないと舌鋒鋭く批評する記事もあります。以下のような記事です。(一つ目は首肯しかねる表現もありやや閲覧注意です。二つ目は批評家である宇野常寛さんの有料記事です。)

「キモチワルイ」 シン・エヴァンゲリオン感想・考察

④「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」についての雑感(今日における虚構の価値について)

 私はシンエヴァよかったなあと思っているクチですが、こうしたネガティブな意見はおかしい!という主張をしたいわけではありません。むしろ、シンエヴァを見た後にこうした記事を読み、かなり考え込んでしまったんです。自分がシンエヴァに感動したのは間違いない。しかし上記の記事は、否応なく一定の説得力を持って、私の前に立ち現れてくるのです。シンジ君の成長が、TV版やEOEから眺めるとどこか浮いたものであるようにも見えてしまうのも、私にとっては事実なんです。そういう意味では、このシンエヴァは、『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編としてふさわしいものではないのかもしれない。なぜ、このような互いに相反するような感想を、このシンエヴァという作品は惹起してしまうのでしょうか。

 それに対する私なりの答えを書くのが本記事です。いわばこの記事は、「シンエヴァに対する感想に対する感想」なのです。

1. シンエヴァ批判の論拠 ~問題意識への回答の放棄?~

1-1. TV版とEOEの敗北

 議論の出発点としたいのは、上で挙げたような記事がシンエヴァにネガティブな意見を投げかけるときの、その論拠の確認です。

 これまでのエヴァンゲリオン、特にTV版とEOEが主に描いてきたのは、シンジ君がいかに自分を確立し、他者にアクセスするかという問題、そしてその苦悩です。

 シンジは母を早くに喪い、父からは捨てられ、他人からの愛を受け取らないまま成長しました。彼は他人に触れるのを恐れ、逆に他人を傷つけてしまうことも恐れ、他人の顔を伺い、他人との距離を保って生きてきたのです。そしてそんな悩みを持ったシンジ君がエヴァに乗る動機とするのは、やはり他人の評価。特にこれまで一切愛を与えてくれなかったゲンドウに「よくやったな、シンジ」と言葉をかけられてからは、なお一層エヴァに乗ることに熱を入れるようになります(TV版12話)。

 しかしこれでは、他人の姿勢に自らの生き方を依存させている点で、自己の脆弱性というシンジの問題の核心は解決されていません。父に同級生の殺害を指示されたシンジ(TV版18話)は、再び他者の恐怖を思い出し、胎内回帰と言ってもいい、エヴァへの閉じこもりを選択するのです(TV版20話)。

 この「自己の未確立による他者への恐怖」というテーマが極まるのが、EOEで壮大に描かれる人類補完計画です。人類補完計画は一言でいうと「全人類を一体化して単一の高度な生命体に進化させる」計画ですが、この全人類の単一化は、他者への恐怖に対する最もラディカルな解決策です。他者の愛がほしい。しかし他者は自分に振り向いてくれないから、他者が怖い。その苦悩は、他者と自分が一体化することで霧消するからです。他者が全て自分のものになるのですから。事実、人類補完計画が始動すると、マヤは憧れのリツコが、日向は憧れのミサトが、自分を受け入れてくれる幻覚を見ます。渇望してきた他者の愛を、その夢の中でついに手に入れるのです。

 この人類補完計画は、他者がいなくなることに寂しさを覚えたシンジの手によって中断されます。しかし最後はそのシンジ自身が、計画の中断後、自分を受け入れてくれないアスカの首を絞めるのです。EOEを締めるのは、他者への恐怖の最もおぞましい形での描写。そして、それに対するアスカの「気持ち悪い」という断罪なのです。

 この他者の恐怖とその破滅的な克服は、人類補完計画のシーンでBGMとして流れる「Komm,susser Tod/甘き死よ、来たれ」の、監督自ら書いた日本語原詞にも凝縮されています。

不安なの。
不安なの。
みんなに嫌われるのが、恐い。
自分が傷つくのが、恐い。
でも、ヒトを傷つけるのが、もっと恐い。
でも、傷つけてしまう。
好きな人を傷つけてしまう。
だから、ヒトを好きになれない。
だから、自分を傷つけるの。
嫌いだから。
だいっキライだから。
好きになっては、いけないの。
だから、自分を傷つける。
優しさはとても残酷
心を委ねたら、私は壊れてしまう
心が触れ合えば、あの人は傷つく
だから、私は壊れるしかない
無へと還るしかない

 以上が、エヴァンゲリオンの問題意識です。他者の愛を受けることができない。他者に愛を与えることができない。それをいかにすれば、自己の確立を通して克服することができるのか? その問題にTV版とEOEは取り組み、そしてもはや「答え」とも言えない、敗北と言ってもいい終わりを迎えるのです。

1-2. シンエヴァに求められた「リベンジ」

 その敗北の果てに始動したのが、序から連なるエヴァンゲリオン新劇場版です。であるのならば、ファンはどうしても期待してしまうのではないでしょうか。TV版とEOEが取り組んできたあの問題に、自己の確立と他者の愛という難問に、ついに新劇場版は答えを出してくれるのではないか。EOEが壮大な物語の末に敗北したこの問題にリベンジし、ついに勝利してくれるのではないか。そんな期待が、特にEOEを見て以来この作品にとらわれてしまった人々の心には、膨らんだのではないでしょうか。

 しかしふたを開けてみるとシンエヴァは、その難問に取り組むどころか、その難問をスキップしてしまうのです。TV版、EOEで他者とのかかわり方に懊悩していたシンジは、シンエヴァの冒頭で再びその苦悩の姿を現します。Qで自らの罪を知らされたシンジは、自分がしでかしたことの真相に衝撃を受け、自分に生きる価値を見出せなくなっているわけです(この苦悩は実はTV版、EOEのそれからは微妙に質的に変わっているんですが、これについては後述します)。

 それを、シンジはこのシンエヴァ序盤ですぐに克服してしまいます。かつての同級生やアヤナミレイの愛に触れ、彼はついに「どうしてそんなに優しくしてくれるんだ」と決壊します。すると、アヤナミレイからは、なんと「あなたのことが好きだからよ」と言葉をかけられてしまう。あれだけシンジが求め、しかし得られずに苦しんだ他者からの愛を、彼は、ただ引きこもっていただけの序盤で明示されてしまうのです。ずっと求めていたものが、自分のもとに転がりこんでくるんです。そしてシンジは立ち直り、アヤナミレイの消滅を乗り越え、自らエヴァに再び乗ります。そして遂には、ゲンドウを説教する立場にまでのし上がることになるのです。

 このシンジの簡単と言ってもいい成長は、TV版とEOEが取り組んできた「他者との関わり」という問題を、その難しさを、はっきり言って無視してると思います。あれだけシンジの苦悩を執念深いと言っていいほどに描き、その果てに迎えた衝撃的な敗北の価値を、無視するかのようなインスタントな解決。こんなに簡単に他者の愛を手に入れることができるならば、TV版とEOEの戦いは一体何だったのかということになる。あの壮大な物語の意義が、消し飛んでしまうのです。

 だから、「TV版とEOEのリベンジ」という尺度からこのシンエヴァという作品を眺めると、この作品は「やるべきことをやれていない」ということになるわけです。第三村がシンジの苦悩の解決を描くためのパートであるのならば、各所で散見されたようである「第三村パートが長く感じた」という感想は、もってのほかということになります。長いなんてとんでもない。第三村パートは、「短すぎる」のです。

 これが、冒頭で挙げたような記事で語られる「取り残された」という感覚の構造だと思います。本来取り組むべき問題意識をスキップして、先へ先へと進んでしまった。それが、シンエヴァの看過しがたい問題点なのです。

2. シンエヴァは本当に問題意識を放棄したか?

2-1. エヴァンゲリオンが孕むアンビバレンス

 私は上記の考え方に基本的には納得しています。私はTV版とEOEを昨年ようやく鑑賞したのですが、そこで描かれる「他者との関わり」の問題に対する描写の執念に、まさに唯一無二といっていい価値を感じました。以下のとおり、EOEを絶賛する記事をはしゃいで書いたりもしてます。だから、シンエヴァでこれに対する答えが提示されなかったことに「うん?」となってしまったのは事実です。

『新世紀エヴァンゲリオン』TV版・旧劇場版『Air/まごころを、君に』考察 ~他者の道具性~

 しかし、その問題意識への答えがなかったことをもって、「エヴァンゲリオンは問題意識への回答を放棄した」、「シンエヴァはファンを裏切った」とまで言うとしたら、それは少し早計に失する判断である、そう私は考えます。このことを明らかにするには、TV版やEOE、さらには序破Qに隠れている、ある捩れた性質に着目しなければなりません。

 TV案とEOEが描いていた「他者との関わりの難しさ」というテーマ性はそのまま、他者と関わることができず、アニメや漫画などの虚構に依存するオタクたちへの批判としても解釈されます。事実EOEでは、エヴァンゲリオンの映画を鑑賞する人々の実際の映像を劇中に挟んで、エヴァンゲリオンを見ている人々に、アニメではなく自分自身を顧みるように促す演出が挿入されていたりします。アニメオタクはきちんと他人に関わらず、アニメを見ては熱を上げ、パソ通で便所の落書きのような談義をしている。そんなアニメファンに対してEOEは、他者との関わりに苦しみ、他者との一体化を図る子供じみた壮大な計画、そして他者欲しさにその計画を中断するも、結局他人を攻撃することしかできない主人公を提示し、遂にはそれを「気持ち悪い」と断罪してしまうのです。

 アニメファンが追ってきたアニメ・主人公を、アニメファンが熱を上げてきたかわいいヒロインの手で拒絶する。これはまさに、多くのアニメファンを惹きつけるエヴァンゲリオンだからこそできた、強烈なアニメファンへの否定のメッセージであるわけです。

 しかし、このエヴァンゲリオンのアニメファン批判の構造は、それがあまりに高度すぎたがゆえに、思わぬ逆転をアニメファンに許すことになります。それは、アニメファンがこのEOEを、「俺たちの存在を承認する物語」として解釈する余地を与えてしまったことです。

 エヴァンゲリオンが描く「他者との関わりに対する苦悩」は、あまりにもリアルです。本作はそれを批判的に描いていきますが、同時に本作はその苦しみを、繰り返されるシンジの逡巡、心の中での他人との会話、そして思索を通して、懇切丁寧に描いています。それがあまりに丁寧だから、同じく他人との関わりに苦しみアニメに没頭していたファンは、そこに、ある種の「救済」を感じたのではないでしょうか。

 もう少し詳しく言います。90年代当時は、今とは比べものにもならないほど、「オタク」に対する理解が無かったことでしょう。人と関わらずアニメに没頭する人間は、それだけで「社会不適合者」との烙印を押されることすらあったかもしれません。世間は、「人と関わらない」、「アニメを見ている」といった表層的な点だけで、自分を否定してくるのです。

 そんな状況に現れたのが、アニメファンの心理を丁寧に再現した『エヴァンゲリオン』だとしたら、それはアニメファンの目に映るのでしょうか。それは、初めてのアニメファンが、自らの表層だけで判断されるのでなく、自らの複雑な内面を「認識」された瞬間なのです。それは、これまで一方的に理不尽な拒絶を受けてきたアニメファンにとって、何よりも強い「承認」を意味するのではないでしょうか。

 だからここで『エヴァンゲリオン』は、アニメファンにとって「俺たちの物語」になるのです。どれだけエヴァンゲリオンが俺たちを批判しようと、俺たちを高い解像度で認めてくれる時点で、それはもはや「承認」になる。もっと言うと、その物語が示す俺たちに対する批判は、この世界で苦しむ俺たちにとって、その苦悩を克服し、成長していくための指針にすらなりうるのではないか。そういうふうに、アニメファンはエヴァンゲリオンを受け入れていったのではないでしょうか。

 すなわちエヴァンゲリオンは、アニメファンに「アニメばかり見てないで現実と向き合え」と言いつつ、その批判が的確過ぎたがゆえに、かえってアニメとしてより魅力的になってしまったのではないでしょうか。エヴァンゲリオンは、「現実」を志向したがゆえに、「虚構」としての強い引力を獲得してしまったのです。

2-2. Qで反復されるオタク批判(とオタク承認)

 このエヴァンゲリオンが持つ、鑑賞者が現実で抱える問題に対する鋭い洞察力が再び光ったのが、新劇場版のQです。Qが行うのは、破で「綾波を守る」という主人公ぶりを発揮しアニメファンから絶賛されたシンジを、再び断罪することです。

 破でミサトは言いました。「行きなさいシンジくん!誰かのためじゃない!あなた自身の願いのために!」と。TV版では他人に戦うことを、人類の未来を背負うことを強要され、他者の愛を求めて戦っていたシンジは、ついに他人に関係なく、「自分のために」戦うことを許されるのです。

 「自分のために」戦うこと。これは、追って戦い自体を放棄するセカイ系に連なっていく90年代の物語にはなかった、10年代の物語の根幹を支える大きなテーゼです。『進撃の巨人』(の序盤)は、自分の大切なの人との関係性という「世界の美しさ」のための戦いを描きます。『鬼滅の刃』は妹という自分の家族を守るための戦いを描きます。『天気の子』は自分にとって大切な人を守るために、世界をも改変してしまいます。あるいは、ジェンダーを題材にした作品など、「自分らしさ」を至上命題とする作品が増加も見られました。旧来の価値観や混迷する現代社会の行く末、あるいはオタク蔑視など気にせず、「自分のために」、「自分らしく」生きること。これこそが、10年代のオタクたちを掴んだテーゼなのです。(この結論になぜ至るのか、というお話は私の別記事シリーズ「『進撃の巨人』論」で詳細に論じていますのでご興味があればぜひぜひ。番宣ですね。)

 そして何より「破」(2009)は、このテーゼをゼロ年代末にいち早く取り入れ、そのテーゼをシンジに体現させたがゆえに、アニメファンの絶賛を受けることになったのです。

 しかし、本当に「オタクが自分の好きなように生きる」だけで、オタクは救われるのでしょうか?残念ですが、そんなことはありません。私たちは結局Twitterのバズツイートで批判されているような古臭い上司の下で毎日働かないといけないし、定職・結婚・出産といった経済的・社会的な要請とも、全面的に従う必要はなくとも、ある程度は折り合いをつけていかなくてはならない。また、そもそもみんなが好きなように過ごしていると、きっと社会は機能しなくなってしまうし、きっと(というか現に)分断も激しくなってしまう。「自分らしく」至上主義は、現実を志向するエヴァンゲリオンにとっては、批判されるべきものなのです。

 だから、Qはシンジを徹底的に批判するのです。綾波という大切な人を守るために戦った結果、サードインパクトを起こしてしまったシンジに対し、「戦う」というアイデンティティを封じるだけでなく、守ったはずの綾波も奪ってしまう。シンジはそれでもなお、新たな「自分にとって大切な人」たるカヲルくんのために戦いますが、それもフォースインパクトにつながってしまう。Qは、10年代をかけてオタクを席巻した「自分らしく」というテーゼを、2012年の時点で痛烈に批判してしまったのです。(同じ「世界を犠牲にして大切な人を救う」を美談として描いた『天気の子』のヒットが2019年です。)

 この鋭すぎる、時代を先取りしすぎたと言ってもいい解像度の高い批判は、結局はその高すぎる解像度の末に、やはり再びオタクの承認を強化することになります。「自分のために」を実践し、そしてそれがもたらした悲劇に苦しむシンジを描写するQのドラマは、「自分のために」を実践しようとしつつも、そのテーゼの理想と現実の間に揺れるオタクの苦しみを、やはり丁寧に再現しているわけです。そしてそれはオタクにとって、EOEで見た構造と同じように、自分という存在を、苦しみを「認識」してくれたということを意味するのです。いや、もはやそれはEOEと同じ承認ではないでしょう。「自分のために」という10年代のテーゼをいち早く取り入れてオタクの苦しみの描写を見事に再構成した、「10年代にアップデートされた承認」であるわけです。

2-3. 虚構への引力の無効化

 まとめに入ります。

 エヴァンゲリオンは「現実と向き合え」と言います。これは、オタクが現実で直面している問題からアニメを見て逃避し、その問題を考えないことを懸念してのことです。

 しかしエヴァンゲリオンはその鋭い現実描写の末に、オタクの承認という反転した効果を持ってしまいました。オタクの問題を高い解像度で再現したことで、そこで展開されるオタク批判は、この世界で苦しむオタクにとって、その苦悩を克服し、成長していくための指針になる可能性すら感じさせてしまう。TV版、EOE、そしてQが、時代の変遷に巧みに適応しつつ描いてきたオタクの精神的な問題に、シンエヴァがついに答えを出してくれるのではないか、そう、オタクに期待させるまでになったのです。

 これは、オタクが単にアニメで現実から逃避することよりも、さらにゆゆしき事態であることがおわかりでしょうか。かつてオタクは、ただ現実の問題から目を背けているだけでした。だからアニメを取り上げれば、オタクが再び現実を向き合う可能性があった。しかし、オタクはついに、「エヴァンゲリオンを見れば現実の問題に答えが出る」と思うようになってしまったのです。エヴァはもはや、単なる現実からの逃げの道具としてのアニメではない。積極的にオタクを現実への直面から遠ざける引力を、他でもない、現実に向き合えと言っていたエヴァ自身が持ってしまったということです。

 であるのならば、エヴァがやるべきことは一つです。「虚構としての引力の無効化」です。「この世界で生きていくための答えをエヴァが与えてくれるかもしれない」というオタクの期待を、無効化することです。

 ではどうやって答えを無効化するか? 答えは明らかです。これまでエヴァが描いてきた問題意識に、オタクにとって参考にならない答えを投げつけてしまうことです。これならば、エヴァンゲリオンという作品のテーマ性の一貫性を保持しつつ、オタクの期待だけを取り除くことができます。これまでの問題意識に形式上ケリをつけつつ、かつ、オタクの依存を振り払いつつ、しっかりと『新世紀エヴァンゲリオン』を完結させることができるのですから。

 そう、これこそが、シンエヴァの第三村パートという問題のシーンの構造なのです。第三村のシンジの「オタクの参考にならない」容易な再起は、エヴァの一貫性を崩すような、問題意識を放棄するようなものではない。むしろこの第三村パートは、問題意識を放棄せず、かつ、オタクへの承認効果を無効化して「現実と向き合え」というテーマを完遂するという、困難なミッションを同時にやってのけた曲芸的な技だったのです。

 そうすると、私たちがシンエヴァに抱くアンビバレントな感覚の謎が、明らかになってきます。

 シンエヴァは自分の求めているものではなかった。そんな感想をシンエヴァに対して持つことは自然なことだと思います。私たちがエヴァに期待していた「答え」が、シンエヴァから提示されることはなかったのですから。

 しかし上記の議論を踏まえると、「シンエヴァはエヴァンゲリオンではない」という言い方を続けてしまうのならば、これは誤りなのです。むしろ、エヴァンゲリオンがやっていることはTV版からシンエヴァまで、一切変わっていません。エヴァはTV版からシンエヴァまで、ちゃんと「現実に向き合う」ための物語であり続けているんです。そしてその「現実に向き合わせる」ための手段を、時にはヒロインの「気持ち悪い」という拒絶、時には「あなたはもう何でもしないで」という命令、そしてしまいには、ヒロインの「みんなあなたが好きだからよ」という言葉へと、巧みに変えてきただけなんです。その物語性こそが、TV版、EOE、序破Q、そしてシンエヴァへと連なる壮大な物語を通して一貫して続いてきた、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品の営為であり、この作品の凄みなのだと思います。


 以上が、私が冒頭で述べた、「なぜ、このような互いに相反するような感想を、このシンエヴァという作品は惹起してしまうのか」という問題への答えです。

 『新世紀エヴァンゲリオン』には、「現実と向き合う」という側面と、「虚構としての引力」の側面という、相反する二面性がある。そしてシンエヴァは後者を放棄したから、見た者に「取り残された」という感覚を与える。そして同時に、前者を完遂したから、見た者に「いいものを見た」という感覚を与えるのです。

 現実を鋭く描写しすぎたがゆえに発生した、受け手に相反する感想を抱かせてしまうアンビバレンス。非常に高いレベルでその営為を続けてきた証とも言えるこの『新世紀エヴァンゲリオン』ならではの現象に敬礼し、この記事の締めとしたいと思います。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

(おわり)


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