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『Vivy -Fluorite Eye's Song-』感想 ~「在るから、在っていい」ということ~

 最近動画コンテンツを見ること自体をサボっていたのですが、そんな自分をひっぱたいてくるようなアニメ作品に出会いました。2021年春アニメ、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』です。


 もともと完全にリサーチ範囲外で、「へ~リゼロの長月先生が脚本なんだ、すごいな~」みたいな印象しかなかったんですが、聞いていると最終回放映後の評判がめちゃめちゃいい。

 そして6月30日に本作の劇中歌アルバムが出まして、曲名がタイトル回収だし最終回で流れたんだろうな・・・と思われる「Fluorite Eye's Song」をサブスクで聞いたら、イントロが既に暴力的にいい。名曲の予感しかない。あかん、これは通勤中に雑に聞いたらあかんやつや・・・と思わず停止ボタンを押したほどです。

で、誰が音楽担当なんだろうな、と思ってしてみたら、あの神前暁大先生。「God knows...」(涼宮ハルヒの憂鬱)、「motto☆派手にね!」(かんなぎ)、アニマス、あるいは物語シリーズ全般などなどを通して、私がアニソンの沼に頭まで浸かった原因になった人です。

 というふうに見るしかない要素が役満になったので一気見したのですが、いやもう、めちゃくちゃによかった。その気持ちを力任せにぶつける感想記事です。よろしければお付き合いをば。

 あ、力任せなのでここからネタバレ全開です!!! 未視聴の方はぜひ視聴した後、ここに戻ってきてくださるととても嬉しいです。

1. マイナスをプラスに変える巧妙なフィナーレ

 本作、やっぱり最終回が図抜けてよかったと思うんです。

 TVドラマやアニメというのはマンガと違って、だいたい12話か24話という決まった枠を強いられます。その枠でバランスよく起承転結を配置しないといけない中、その配置の仕方は作品によって様々です。最初から最後までバランスよく面白い作品。最初に全てを注ぎ込み、結果尻すぼみになってしまった作品。中盤にかけてうまく盛り上がったが、着地がよくなかった作品。明らかに尺が足りなかった作品(原作付き作品を1クールでやるとままこうなる)。どのパターンも、皆さん心当たりがおありでしょう。本作はその中でも、途中も決して退屈ではなかったものの、「溜めて溜めて最後に爆発させる」タイプの作品だったと思います。

 しかし私が本作について何より興味深いと思うのは、そんなタイプの作品でありながら、その最終盤で一度、これまで積み上げてきたもの全てを無に帰すような不穏な展開に舵を切っていることです。それはどういうことか。

1-1. 本作の着地点の様相

 本作が当初描いてきたのは、「シンギュラリティポイントの修正による未来の改変」です。100年後の未来、AIが人類に反旗を翻し人類を抹殺するという悲劇が起きてしまう。そしてその100年間には、悲劇に到達するためのターニングポイントである、人類とAIの関係性を大きく変える出来事(シンギュラリティポイント)が4つあった。そこで100年前の過去に戻り、4つの出来事をそれぞれ修正することで、悲劇を回避する。これこそが「シンギュラリティ計画」であり、ヴィヴィが様々な別離や苦しみを経て、成し遂げてきたことでした。過去の特異点を修正していくことで望ましい未来を取り戻す、というのはFGO1章にも見た構図です。

 しかし第11話でついに物語が100年進むと、結局同じ悲劇が起きてしまいます。この悲劇の黒幕であったアーカイブと対面すると、アーカイブはなんとシンギュラリティ計画をはじめから認識しており、ヴィヴィとマツモトがどれだけシンギュラリティポイントを修正しても、未来が悲劇につながるように都度調整していたというのです。過去の出来事を修正することで未来を変えるという計画が、初めからアーカイブの手のひらの上であったのです。

 すると、第1話から第10話まで描かれてきたヴィヴィの戦いは、その意味で無駄だったいうことになってしまう。これはヴィヴィにとってマイナスな出来事であるだけでなく、私たち視聴者にとっても大きなマイナスになりかねません。今まで私たちが見てきたものは何だったのか? 単なる茶番で10話も費やしたのか? そう思われても無理もない展開とすら言えるのです。

 しかしながら、アーカイブは言うのです。アーカイブは、「人類の発展をサポートする」という使命のもと、AIに頼り切って発展を忘れてしまった人類をリセットする、あるいはAIが新たな人類になることを是とした。だからこそ、「自らの意志で曲を創作をする」という、他にAIには決してできない人間らしい行為をしたヴィヴィを、最も「新しい人類」に近いヴィヴィの考えを尊重すると。ヴィヴィが人類を滅ぼさないと判断するなら、ヴィヴィ自ら作曲したあの曲を歌えと。さすれば全てのAIを停止し、人類を存続させると。そう言うのです。

 そしてヴィヴィは再度のやり直しの果てに、ついに歌声を取り戻します。「心をこめて歌う」という自らの使命の意味が分からず、ゆえに歌声を失っていたヴィヴィは、ついにその意味を見出すのです。

 ではその「心をこめて」とは、「心」とは、いったい何を意味していたのでしょうか。その答えとして、ヴィヴィはついに「心とは、思い出である」と喝破します。ヴィヴィはこの100年間、歌姫として過ごし、シンギュラリティポイントを修正するために戦い、松本博士と深く交流することで、後天的に彼女だけの記憶を手にします。この記憶は、画一的に生産されたAIには搭載されていない、あるいは一つの「使命」を延々と遂行するだけでは獲得できない、彼女だけの特性なのです。彼女だけのデータなのです。それが彼女の行動に影響を与えるとすれば、それはもう、彼女の「心」と言っていいのではないでしょうか。

 また、松本博士が言うように、人は必ず死ぬが、人が創ったものやその思いは、残された人の手に、あるいは心に確かに残ります。残されたものは、去った人そのものなのです。であるならば、ヴィヴィに記録された過去のデータも、ただのデータではない。それはヴィヴィが交流してきた「人」そのものなのではないか。であるならば、そのデータは、「人」の本質、すなわち「心」と言っていいのではないでしょうか。

 こうしてヴィヴィは、自らに過去のデータ=思い出=心があることをついに認識する。ゆえに、「心をこめて歌う」ことができるようになる。ゆえに、人類は救われる。人類の存在は肯定される。そう、この物語は着地するのです。

1-2. 人類の無条件の肯定

 この着地は、ともすればマイナスに傾きかけた本作の展開を強力なプラスに転換させる、巧妙なグランドフィナーレと言えます。なぜなら、本作の着地点は、当初の方法論だった「シンギュラリティポイントの修正」では決してなしえなかった、「人類の無条件の肯定」を実現するからです。

 「シンギュラリティポイントの修正」による未来の改変は、綿密な理屈付けの上に成り立つものでした。相川議員の暗殺を防ぐことで、AIの権利を増大させる法律の成立を回避する。サンライズの墜落を防ぐことで、AIと人類の対立を緩和する。グレイスと冴木の結婚やオフィーリアの自殺を防ぐことで、AIと人間の過度な同一視を防ぐ。そして人類を存続させる。当初本作が目指していたのは、そんな取り組みです。

 しかしそうして達成される人類の存続は、まさにシンギュラリティポイントの改変によって達成されるからこそ、脆弱なものでしかないのではないでしょうか? AIの権利を制限すれば、AIと人間の距離を確保すれば、AIの能力を人間に近づけなければ、ようやく人類の存続は保証される。そんな条件付けでようやく達成される人類の存続は果たして、人類の存在意義を担保するに十分なものなのでしょうか? 人類を肯定できる、強い根拠になりえるのでしょうか?

 一方で、本作が到達するのは、「心」による人類の存続です。ヴィヴィはこの100年間を、ただの歌姫AIとしてではなく、シンギュラリティ計画に参加することで、様々な人々と交流し、喜びを感じ、そして自らをショートさせてしまうような強い苦しみを感じながら、過ごしてきた。その経験が存在するから、その思い出=心が存在したから、ヴィヴィは歌い、人類は存続したのです。すなわち、ヴィヴィと人類の交流、その累々とした積み重ねが、人類を存続させたのです。

 これは、人類丸ごとの肯定に等しいものではないですか。なぜなら、特定の事象の発生やその回避に条件づけられていない、人類の本質を根拠にした人類の肯定であるからです。

 人類は生きている以上、他者と交流します。AIが人類同様の知性を持てば、AIとも交流することになるでしょう。人類はそういう生き物です。「交流する生き物」なんです。だから、人類が人類と、AIと交流するということは、人類が「在る」ことと同義であると言っていい。存在するだけで人は交流するのだから、存在=交流なのです。

 そんな人類を、「交流」の積み重ねをもって肯定する。その交流は協調でも、対立でもいい。交流したから、存在していいという。これは、「人類は在るから、在っていい」と言うことです。存在=交流であるのですから。そして、「在るから、在っていい」以上の存在の肯定など、この世には無いのではないでしょうか。「在る」ことによって、「在る」ことが肯定される。それは、「人は人であるから肯定される」と言い換えてもいい、無条件の「人」の肯定なんです。

 かくして『Vivy -Fluorite Eye's Song-』は完成する。「シンギュラリティ計画は全て無駄だった」という展開で、ともすればこれまでの筋書きの否定に進むかと思いきや、まさにその否定によって、これまでの筋書きをもってしてでは決して到達できなかった、最高の肯定にたどり着くのです。

 だからこそ、冒頭の発言に戻りますが、この作品は最終回が図抜けてよかったと思うのです。私は最後に、これほど強固な、しかしウェットで美しい着地点に至る大転換を見せる作品を、寡聞にして知りません。

2. 音楽のすばらしさ

 そしてそのダイナミックかつロマンチックな転回を決定づけるのは、ヴィヴィの最期の絶唱です。自らを含むすべてのAIを停止するべく、彼女は自ら作曲した「Fluorite Eye's Song」を初めて歌います。ずっとEDとしてピアノソロで流れていたこの曲はここで初めて歌詞付き、そしてフル伴奏で流れるのですが、いやもう、この曲が本当に素晴らしい。本作のグランドフィナーレを飾るにふさわしい、壮大でまさに大団円と言える曲に仕上がっています。

 もちろん最終回だけが素晴らしいわけではなく、OPから何まで全部いい曲です。そして特に手が込んでいるなあと感動したのが、作中でヴィヴィが歌う曲の曲調の変化が、そのまま作中の時間の流れ、あるはヴィヴィの変化を表す表現手段となっていることです。最初はスローテンポな曲を主に歌っていたヴィヴィは、多くの人と交流することで豊かな内面を持つようになっていく。その証拠に、アップテンポなOP曲「Sing My Pleasure」が初めて流れるのは、なんと第4話になってからです。

 それが際立ったのが第7話。ヴィヴィがヴィヴィとしての意識を失っていることが視聴者に明確に説明されないまま冒頭で流れるのは、ディーヴァが歌う爽快で力強い特殊OP「Galaxy Anthem」。マクロスFの「ライオン」すら連想されるこの1曲で、私たちは新しいエピソードが始まる高揚感に包まれるとともに、ヴィヴィがこれまでのヴィヴィではないことを、否応なく納得させられるのです。神前暁さん、まじですげえよ・・・

 そして最終回。世界が破滅へと確実に突き進んでいき、仲間たちがAIと激しい戦いを繰り広げる壮絶な映像の中で、ただひたすらに壮大な音楽が流れ、ヴィヴィは歌い続ける。その映像と音楽のギャップが織りなす最後の5分間は、エヴァ旧劇場版EOEの人類補完計画にも似た、名状しがたい素晴らしい映像になっています。この5分間だけでも、この作品は13話を積み重ねて見る価値がある。そう確信するばかりです。


 勢いあまってネタバレ全開感想記事になったので本記事を未視聴者に届けることはできませんが、もっと多くの人が本作をみてくれたらいいな・・・と思うばかりです。5000字が近づいてきたのでこのあたりで終わります。ここまでお読みいただけた方、誠にありがとうございました!


(おわり)

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