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【レビュー】『地球の子』~「ヒーロー・コンプレックス」をいかに超えるか?~

※ サムネは『地球の子』第1巻表紙。以下マンガ引用は全て『地球の子』第1話より。

 「自分は主人公ではないのかもしれない」、そうあなたが初めて感じてしまったのはいつのことだろうか?

 子供たちに将来の夢を聞くと、「プロスポーツ選手」、「総理大臣」、はたまた「アイドル」と、まさに夢のある答えがたくさん返ってくることだろう。しかし、この夢を大人になってもずっと持っていられる人は稀である。年齢を重ねるにつれて、私たちの前には信じられないような運動能力を持つライバルが現れる。自分ではとても敵わないような頭脳の同級生が現れる。自分が逆に圧倒されてしまうような魅力を持つ友人が現れる。そうすると否応なく私たちは、自分が夢見ていた存在にはなれないということを、徐々に理解していく。自分では、スポーツや歌で多くの人を魅了し、元気づけることはできない。自分では、社会のリーダーとしてこの世界を大きく動かすことはできない。自分は、「主人公」にはなれない。大人になるころには、多くの人が少なからずこのような意識を持つに至ってしまう。

 もちろん、これは決して悪いことではない。多様性が喧伝されるこの現代では、「こう生きるのが正解である」といった生き方があるわけでもない。自分ができる限りこの人生を楽しく過ごせるように、仕事は程々にして趣味に打ち込み、友人と語らい、あるいは家族の幸せのために生きるのも、充実した生き方の一つであろう。

 しかし、そんな生き方に普段は満足していても、私たちは時にふと思うのである。かつて一般人だった人が、努力を重ねた結果有名人になって、多くの人を元気づけるような活躍をしているのを見たとき。あるいは、かつての同級生が、今は世界を股にかけて活躍し、社会に大きな影響を与えているというのを耳にしたとき。あの人はこんなふうに自らの人生を花開かせ、世界に大きく貢献しているのに、果たして自分は自分のためだけに、あるいは狭い友人・家族たちの世界の中で、なんとなく生きていていいのだろうか、と。

 前置きが長くなったが、そんな漠然とした「世界貢献」への憧れ、そして「主人公」になれない不安に、正面から取り組んでいるのがこの『地球の子』という作品である。

1.       あらすじ

 本作は、何の変哲もない一般人の青年、佐和田令助が主人公である。

 本作の物語は、令助がトラックに轢かれそうになったところを、星降かれりという特殊な能力を持った女性に救われることで幕を開ける。彼女は地球の意思のもと、地球に危機が迫った時にそれに立ち向かうべく産み落とされた「地球の子」であり、その特殊な能力を活かして、様々な人を救っているという。彼女はこの世界を救うべく存在するヒーローであり、まさに「主人公」なのである。

 そんな「主人公」たるかれりと、特別な力を持たない一般人としての令助は恋仲になり、やがて息子の衛をもうける。しかしそんな幸せの最中で、地球に巨大な隕石が飛来。かれりはこの隕石の破壊に成功するが、その大爆発の余波で行方不明になってしまう。そして悲しみに暮れる令助を次に待っていたのは、息子の衛もまた超能力を持っており、「地球の子」として選ばれていたという事実。一般人でしかない彼は、やがて世界を救わなければならないヒーローの育て親として、世界の運命を背負うことになるのである。


2.       ヒーローという「結果」ではなく、「過程」を描くこと

 本作はその後、かれりの行方の探索と、令助による「ヒーローの育児」の悪戦苦闘を同時に描いていくことになるが、まず本作の特徴として挙げたいのは後者である。「ヒーローを育てる」という物語は、私たちが「ヒーロー」に対して憧れと不安を感じるとき、私たちがしばしば忘れている当たり前の事実を思い出させてくれる。それは、ヒーローが世界に大きく貢献できるのは、そのヒーローをそのように育ててくれた人たちがいたからである、という事実である。

 ヒーローはなぜヒーローになれるのか。それは当然、彼彼女の才能、生まれ持った能力によるところも大きいだろう。しかしその能力が大きければ大きいほど、当然悪用の可能性も大きくなる。あるいは、そのような能力があったからと言って、危険を冒してまで、世界の危機の最前線に身を投じて、他人を救うようになるとも限らない。その能力を一切使わず、狭い世界でひっそりと暮らしたい、そう彼彼女が望んでしまうこともあるだろう。

 だからヒーローがヒーローであるということは、ヒーローが「世界を救う」ことを使命として受け入れるに至る道が、そのヒーローの後ろに伸びているということを意味している。その道には、ヒーローが自らの使命を受け入れるきっかけを作ってくれた人がいるだろう。そしてその後ろには、その使命を受け入れる素地となる、ヒーローの利他の心を涵養した師がいるだろう。そしてさらにその後ろには、師の教えを受け入れるためのヒーローの素直さを育ててくれた、親がいるだろう。そんな、ヒーローの背後にいる人々の存在、そして選択があったからこそ、ヒーローはヒーローとしてそこにいるのだ。

 逆に言えば、そのうち一人でも欠けていたら、あるいはそのうち一人でも、ヒーローに関して別の選択をしていたら、そのヒーローは存在していなかったかもしれない。そして、そのヒーローがもたらす世界の救済も、なかったのかもしれない。であるならば、ヒーローの背後にいる人々の存在、選択の一つ一つが、まさに世界貢献であるのではないだろうか。

 ここに話が至ると、本作の取組みの内実が、一般人によるヒーロー・コンプレックスの治癒であることが明らかになるだろう。華々しく世界貢献を行うヒーローの存在は、私たち一般人の憧れであると同時に、劣等感といってもいい存在不安を、時に私たちに喚起する。あの人はこれほどまでに人々の役に立っているのに、例えばただ趣味に興じているだけの自分に、果たしてどれだけの価値があるのか。そういう不安である。

 しかし、世界貢献を直接的に行っていない=存在価値が低いというのは誤りである。仮にあなたが直接的に大きく世界を変えることはなくとも、あなたの存在が、選択が誰かを変えて、それがまわりまわって世界貢献に不可欠な要素になることはある。そうなれば、あなたの選択とヒーローの存在は、どちらが欠けていても世界貢献が実現しなかったという点で、同価値になりうる。これを言い換えるならば、あなたもまた、「主人公」になりうるのだ。

 ヒーローという「結果」ではなく、その「過程」に注目する本作は、そんな可能性に光を当てるのである。


3.       決定論的諦観の緩和

 また、この「生成過程」の描写は、別の視点からもヒーロー・コンプレックスの治癒を図っている。その視点とは「脱決定論」である。

 私たちがヒーロー・コンプレックスに苛まれるとき、そのコンプレックスへの対処法はいくつかある。その一つが、「ヒーローになれる/なれない人は最初から環境や能力によって決まっているのだから、自分がヒーローでないことにコンプレックスを感じる必要はない」と断じてしまうことである。確かに、自分がどう生きようとヒーローになれないことが決まっているのならば、自分がヒーローではないのは、自分の生き方が間違っていたから、あるいは自分の努力が足りないからではない。だから、自分がヒーローではないことについて気に病む必要がない。「自分はどう生きようとモブでしかない」という事実は、あなたの生き方についての罪悪感からあなたを解放し、その地位に安住することができるだろう。

 しかしながら、これは極論であるし、危険な考え方である。確かにこの考え方は自らのコンプレックスを抹消するに一番手っ取り早い方法なのかもしれないが、自らの選択や努力を一切無意味とする考えは、言うまでもなく努力や積極性の放棄につながる。だから、あなたの人生に光が差す可能性をあなた自身で狭めることになるし、そのような生き方を選ぶ人々ばかりで構成される社会に、前進の途など拓かれないだろう。

 そんな危険な決定論を、このヒーローの生成過程は少なくとも部分的には覆してくれるであろう。ヒーローがヒーローになるのは、最初から動かしようもなく決まっていたことなどではない。本人の努力はもちろん、周りの人と本人との出会いが、そして周りの人の選択の集積が、ヒーローを形作っているのである。その過程をつぶさに描くことは、私たちの人生は最初から決定などされておらず、不確定性なものであることを示してくれるはずだ。


4.       その交流自体の価値

 しかしながら、ここまで示した『地球の子』の取組には一つの限界がある。それは、この取組が「ヒーローとなり、またはヒーローを通して世界貢献をすることが人生の価値である」という前提に依存していることである。

 確かに自らがヒーローにならずとも、世界に貢献できる「主人公」になることができることは救いである。あるいは、モブはヒーローになれないと最初から決まっているわけでもないこともまた、救いであろう。しかし自ら、そして自らが関わった人々のうち一人も、社会を大きく変えるような「ヒーロー」になることが無かったとしたら、結局のところ、その人の人生は価値のないものなのだろうか。あなたの選択や、あなたの他者との交わりが、最終的に世界への貢献につながらなければ、結局のところあなたは「主人公」にはなれなかったということなのだろうか。

 『地球の子』という作品の良くできたところは、ちゃんとこの問いにも「NO」を突き付けている点である。より具体的に言うならば、本作のストーリーはここまでの議論のとおり「世界貢献」「ヒーロー」をメインテーマに据えながらも、「世界貢献」や「ヒーロー」という距離を置こうとする、器用な芸当をやってのけている。

 具体的には、『地球の子』は、上記のようにヒーロー・コンプレックスを解体するための要素を物語に織り込みながら、この物語を「世界の救済」の物語ではなく、あくまでラブストーリーとして展開させていく。令助は、かれりのことを、「世界を救う特殊能力を持ったヒーロー」としてではなく、「人の役に立つためにがんばっている一人の人間」として尊敬する。だからこそ、「かれりさんを支えたいから、自分も受験や就活をがんばれた」というような、普通の恋人にかけるような言葉を、戦場で命を賭して日々戦っているかれりに対して自然と投げかけることができる。かれりも、「世界を救うため」ではなく、「令助が褒めてくれるから」、過酷な戦いに耐えることができる。二人の関係性からは、意図的に「かれりがヒーローであること」が、排除されているのである。

 こうした「世界救済」の意図的な排除は、令助と衛の関係においても同様である。衛は赤子であるにもかかわらず「地球の子」として、殺人をも可能にする超能力を行使できる。これは非常に危険な話であるが、令助は「衛をヒーローとして育てなければならないから」ではなく、「衛は自分の家族だから」、衛のありのままを受け入れて育てていく。また、地球の子を管理する組織から、衛の育成について何らかの提案がなされても、それが衛を「普通の人」として育てることを妨げるものであったら、たとえそれが行方不明のかれりを救うために有用なことであっても、拒否してしまう。そこでもやはり令助は、衛の育児から、彼が「地球の子」のことであるという要素を意図的に排除するのだ。

 こうしたストーリーを紡ぐにあたって、本作は総体として「世界貢献」を否定しているわけではない。令助はかれりに対してその厳しい戦いに身を投じるのをやめてほしいとは決して言わないし、衛がやがて「地球の子」として大きな負担を背負うことになる事実についても、心を痛めながらも受け入れている。世界より愛する人が大切なんだ、というようなナイーブな言動を、令助は基本的に行わない。しかしその上で、令助はかれりや衛と接するとき、二人が「地球の子」であるということを極力考慮しないのである。

 この器用なストーリー展開こそ、この『地球の子』の第三の特徴である。本作はヒーローの「生成過程」として、ヒーローと他者との交流を描いているのは前述のとおりである。しかしその交流について、「ヒーローの生成につながる」という価値を説くだけでなく、「その交流そのものの価値」を強調することを決して忘れないのだ。ヒーローが自らの使命を受け入れるきっかけを作った人がいるなら、その人とヒーローの友情の熱さを忘れない。ヒーローの利他の心を涵養した師がいるなら、その師弟愛の強さを忘れない。そして、ヒーローの素直さを育てたヒーローの親がいるなら、その親子の絆の美しさを決して忘れない。その交流が、その後どのような価値を生むかということだけが問題なのではない。その交流そのものに価値があること、それこそが重要なのだ。

 そうすることで、本作はヒーロー・コンプレックスからの完全な脱却を達成する。人は、ヒーローになれなくてもいい。そして、ヒーローが生まれることに関わらなくてもいい。ただ、他者と関わってほしい。その交流そのものに価値があるから。その恋心が、その親心が、あなたと他者を支えてくれるから。そう、本作は説くのだ。


5.       おわりに

 ・・・とここまで半ば大仰に述べてしまったが、本作は連載の週刊少年ジャンプにてアンケート結果がふるわないのか、連載順としては低空飛行を続けている(そろそろ完結するかもしれない)。ここまで長々と述べてきたとおり、本作には意欲的な要素を様々に感じられる。しかしその理屈っぽさが先行して、少年マンガとして自然と心躍るような展開になっているかというと、なかなか微妙なところもあるというのが正直の感想である。

 しかし、そのちぐはぐさを指し引いて余りあるほどに、この作品のメッセージ性、そしてそれを短い話数に詰め込んでいる濃密さは、特筆に値する。「唯一絶対の正義」はむしろ恐ろしいものと解釈されるようになり、アンチ・ヒーローが流行する「ヒーローの失墜」が見られる一方で、「何者かになりたい」という、ヒーロー願望とも解釈できる憂鬱を多くの現代人が抱えているこの裏腹な時代に、この『地球の子』のような物語が熱量をもって語られることには、大きな意義があるのではないだろうか。

 ということで、ご興味のある方はぜひ本作を手に取ってみてはいかがだろうか。中でも第1話の完成度は素晴らしいので、まずはそれだけでも!


(終わり)

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