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日誌摘錄

 自分の日誌の三月十日と書

いてあるところをあけてみる

以下はその摘錄である。

   ――――――――

 今日は秀英舎印刷工塲を馳

足で見學して、その規模の大

なるに一驚した。文字通り馳

足見學で、一休みもせずに約

三時間を要したのである。工

塲の建築は、鐵骨鐵筋コンク

リートで、工塲採光に十分留

意をした明るい建物である。

新聞社としては、朝日や日々

などは大きい方であるが、印

刷設備に到つては、到底秀英

舎と同日の論ではない。自分

が見學したのは、比較的工塲

の暇な日であつたが、四月號

の「實業之日本」「婦人世界」

「婦女界」等は最早表紙貼付の

ところ迄進んでゐた。百萬部

發行を稱へられてゐる「キン

グ」は既に引渡濟であつたか

ら、その偉觀を目撃すること

が出來なかつたのは遺憾であ

る。その代り、改造社の「國

木田獨歩全集」の内容見本が

實に夥しく積み上げてあつた

豫約出版書の内容見本を、吾

われは粗末に讀み捨てるが、

これ丈けの部數を印刷する費

用を考へると氣の毒になつた

大いに戒飾を要することを痛

感した。

 扨て先づ第一に紙倉庫を見

せてもらつた。一階から四階

迄、各階に百坪以上の室がそ

れに當ててある。全部嚴重た

る防火扉で仕切られてゐる。

この紙庫には、各出版社から

の預り紙や自家用紙が、各種

別に札を張られて積まれてゐ

る。かういふ大印刷工塲では

紙の整理に骨が折れることだ

らうと思つた。一年に二回以

上、庫調べをするさうである。

 次ぎにモノタイプ室を見た

モノタイプ機は三十六臺ある

恰度、四月號の「改造」の組み

をやつてゐた。本機は一臺五

六百圓するさうだが、タイプ

ライタアのやうに、文字盤に

キイを合せて叩くと、地金壺

から流れ出る地金が、所要の

活字となつて出て來る。甚だ

便利な機械である。出て來た

活字は順次に、原稿通りに枠

に並植せられるから、一擧に

して、活字製造と植字とがで

きる譯である。ここで組上げ

られたものは、大部數印刷な

らば紙型にとられるし、比較

的少部數の塲合は、そのまま

印刷機にかけるさうである。

 次ぎに活字鑄造室をみた。

そこには外國製の活字鑄造機

が十二臺付けてあつた。そ

の機械のネームプレートをみ

ると、ソムプソン・タイプマシ

ンとあつた。秀英舎では、活

字地金の調合熔解から、活字

製造まで、全部自社でやつて

ゐる。この燃料には瓦斯を使

用してゐる。随つて、瓦斯代

金の支拂は東京第一に多額に

上るさうである。

 ここで製造せられた活字が

所謂秀英舎型の活字として全

國へ販賣せられるのである。

で、その活字といふのが、實

に大小さまざまあつて、普通

何號活字と呼ばれてゐるが、

最も小さいものは、擴大鏡を

用ひなければ到底肉眼では判

讀出來ない位である。もとも

と、活字といつても、そもそ

もの始りは矢張り、人の手に

依つて書かれた文字なのであ

るが、この文字を書く人が日

本に二人しかゐないといふか

ら驚ろく。築地活版製造所に

一人と、もう一人は秀英舎に

ゐる丈けださうである。自分

は、さういふ天才的技能を有

する人を、一眼見たいと思つ

たが、生憎今日は休んでゐて、

みられなかつたのは殘念であ

る。きけば、その人は秀英舎に

傭はれてゐるものの、他の人

びととは違つて、自由勤務だ

さうである。だから、氣の向い

たときに出て來て、氣の向い

たときだけ仕事をして、それ

でゐて會社からは寳物扱はうもつあつかひ

されてゐる。成程、その位の

待遇は當然である。氣分がく

しやくしやしてゐる時に等あ

んな針の先みたいな文字が書

ける筈がない。その道の達人

になると偉いものだと思つた

 オフセット印刷、グラビヤ

印刷等は何れも最新式の設備

であつて、その畫校室では三

月の十日だといふのに、もう

「婦人世界」「婦女界」「キング」

等の六月號の表紙畫の原板を

畫工がしきりに修正をしてゐ

た。ここのグラビヤ輪轉機は

世界唯一のものだといふこと

で、吾われが婦人雜誌でみる、

グラビヤ版の印刷は、一臺の

機械で、表裏一度に刷れて、

折畳まれて出て來るのである

然も表裏は違つた色である。

これは會社自慢の設備である

もう一つこの室で驚いたのは

レンズの價格一萬圓、乾板の

寸法三尺に四尺一寸、蛇腹の

伸縮も、取枠の開閉も、總て

電動機の力によつてなされる

大寫眞器の設備である。

 これは主として、大ポスタ

ー用に使はれるさうで、又有

事の際は軍事用として指定せ

られてゐるとのことである。

實に雄大な寫眞器があるもの

かなと一見してびつくりした

秀英舎には、ミイレ輪轉機、

和製輪轉機等併せて約百臺が

ある。キング、中央公論、改造、

婦人雜誌等の發賣以前には、

これら多數の輪轉機が大活躍

をして、幾百萬部の雜誌を數

日間に刷上げて了ふのである

その光景は定めし目覺しいも

のであらうと思ふ。ここには

又、機械力によつて、順次に

頁を揃へて行つて、最後に針

金綴までして出てくる自働裝

釘機が二臺ある。この運轉を

みたが、これは未だ能率的に

完全なものではないと思つた

 以上、三時間を費消した見

學記としては、餘りに簡略で

はあるけれども、自分は印刷

工業には全く門外漢であつて

折角憂愁なる工塲を見學し乍

ら、只ただその設備の新らし

く、大なるに驚ろくのみであ

つて、具体的智識として、自

分の頭に収藏し、批判するこ

とができないのは、呉れぐれ

も遺憾千萬である。然し、短

時間の素通り見學に、それを

望むのは少々無理である。自分

は只、日本の大印刷工塲を縱

覧して、素人印象記を書いた

に過ぎないのである。

    (昭和五年四月稿)     


(越後タイムス 昭和五年四月廿七日 
    第九百五十六號 八面より)

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       ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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