見出し画像

砂 丘 の 街

    ◇

 旅にでて見聞する他國の人情風

物ほど、旅人のこころを樂しく慰

さめるものはない。旅はひとのこ

こころをひろくするものだ。この意

味でも旅は人間生活に重要である

 たとへば、疲れを覺えはじめた

結婚生活者に、僕はなによりもま

づ旅をすすめるものである。あな

たがたの故郷でもいい。あなたが

たの見知らぬところであつてもいい

 あなたがたの家庭に或る疲れを

みつけたら、すぐ旅に出なさい。

 旅はきつとあなたがたの生活を

救ふ。旅情は一種の新鮮なる感情

だからである。古びてしまつた愛

情に疲れたあなたがたの旅心にう

つる他國の風物は、あなたがたの

初戀を想ひ出させる。いやたとひ、

あなたがたに初戀がなくとも、旅

はあなたがたに、新鮮なる戀愛感

情を與へるにちがひない。

    ◇

 僕は旅を好きである。ことに漫

旅を好きである。旅に理屈はない。

前章に書いたことは漫旅を好きな

ひとにとつては、無用の理屈であ

る。

 今年も僕は柏崎にきてゐる。柏

崎といふところは、僕にとつて、

ふしぎに故郷のにほひがする。柏

崎は故郷のごとくあたたかく、故

郷のごとくありがたいからである

 まづ朝起きて海へゆく路を歩る

いた。去年もその路を歩るいた。

學校のポプラをみた。去年もその

ポプラをみた。(この學校をへて

世に出たひとも、きつと僕のやう

にあのポプラをみあげるにちがひ

ない。青春は不愉快である。併し

校庭のポプラは青春の呆然とした

樂しさだけを想ひ出させるもので

ある。)砂丘へ出た。その砂丘を無

心で登つた。去年もそのとほりに

した。海が見えた。僕はそのとき

淋しくなつて。つまらないことを

思ひだしたからである。いやそれ

は僕にとつて決してつまらないこ

とではない。去年もそのとほりに

思ひ出したほどではないか。誰れ

だつて自分の戀ごころを輕蔑して

はいけない。――おや、濱ひるがほ

が咲いてゐる。濱ゑんどうの花も

咲いてゐる。去年も咲いてゐた。

去年は濱茄子の赤い花が咲いてゐ

たが、今年は一輪も見あたらない。

どういふわけだ――わけなどがあ

るものではない。咲きたくないか

ら咲かないまでのことである――

 雲雀が囀づつてゐる。空はたか

く、蒼い。六月の海邊の雲雀だ。

六月の梅雨晴れの海のいろだ。去

年もそのとほりであつた。そのと

ほりでないのは、僕の心と濱茄子

の花とだけである。濱茄子は咲く

日がくれば匂やかに咲くだらうが

無心で海をみることのできない僕

は――僕はふと、輕井澤の秋くさ

原を思ひだした。

 渚には僕ひとりだけである。柏

崎の人びとは、何故にこの爽かな

早朝の海邊を歩るかうとしないの

であらうか。朝早くから海邊など

をぶらぶら歩るいたりするのは、

僕が旅びとだからである。旅は―

このとほりに人のこころをひろく

するではないか。

    ◇

 去年、僕が柏崎へ來たのは七月

の十二日だから、恰度祇園祭の當

日であつた。梅雨が未だ晴れきら

ずに夕暮からひと雨きさうであつ

たが、八坂の濱邊で珍らしい花火

を上げるからといふことで案内を

うけた。

 自分は中村葉月氏と街へ出た。

くらい晩であつた。いつたいに柏

崎の街は雪國らしく軒が低く、ひ

るでも陰氣であるが、夜は一層く

らい街に思へた。

「さあ―これから祇園の花火をみ

 にゆくのだと言つて、でかける

 この氣持がいかにも、夏の夜ら

 しくて耐らなくいいのです」

 葉月氏はさう言つて、今打上げ

られたばかりの花火を仰いだ。自

分もその空をみ上げた。

「花火といふものの美しさは思ひ

 きりのいい美しさだ」

 自分はふとそんなことを思ひ浮

べ乍ら、なにごとにも思ひきりの

わるい自分のことを思つてくらい

氣持を覺江たが、

「思ひきりがわるいくらいだから

 文學などに興味を持てるのだ。

 文學などを知らなくとも、せめ

 てあの花火ほどに思ひきりのい

 い人間になりたい。――その方

 がどれほど幸福か知れないが」

と、こんなことをひとりで考へて

みた。

 街はくらかつたが、祭の氣持は

深かつた。

 今年は十日ほど早く來たので祇

園の花火をみられないのは殘念で

ある。柏崎の夏の夜の最もいい情

景を味はずにかへるのは自分にと

つて甚だ遺憾である。

    ◇

 柏崎の婦人の言葉は、いかにも

情愛が深かさうにひびいて、一種

の地方的魅力を多分に持つてゐ

る。雪の夜などに、炬燵にあたり

乍らでもきくのにいい言葉である

ただ發音がひとところ足りないや

うにきこ江るのと、少々早くちに

ひびくのとで他國人の僕などがき

くと、理解できないことが往々に

ある。併し、それも或る塲合、かへ

つて一種の愛を感じるのは不思議

である。

(六月丗日夕暮番神岬にて)

(越後タイムス 大正十五年七月四日 
      第七百六十號 八面より)


#旅 #柏崎 #ポプラ #雲雀 #祇園祭 #ぎおん柏崎まつり
#八坂神社 #花火大会 #中村葉月 #越後タイムス #大正時代
#はまなす #文学 #砂丘 #ハマヒルガオ #ハマエンドウ



↑柏崎の海岸(2021年)




        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵



          一銭亭撮影(柏崎かどうかは不明)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?