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途 上  ― 一錢小説 ―

 二月なかばの或る朝、彼は

寢床のなかで、雨戶にひびく

鶯のこゑをきいた。庭でな

くこゑである。

 彼は鶯をきき乍らほがらか

な氣持であつた。今日はひと

つひさしぶりで銀座でも散歩

しやうかなと思つた。

 彼はその頃、年少詩人とし

て一家をなしてゐた。彼の小

曲を好んでうたつてくれたひ

とは今では彼の妻である。

 彼は鶯をおどろかさない用

心をし乍ら、起きあがつて雨

戶を一枚あけてみた。ほのぼ

のと朝霧のたちこめた淸新な

空氣をとほして、一條の日脚

が土へ走つてゐる。

 彼はかるい呼吸の音をたて

乍ら眠つてゐる妻の寢顔をふ

りかへつて眺めた。

「麻代」とよんでみた。

 さういふこゑが直ぐ白い湯

氣に變るのを、彼は冬の朝ら

しいと思つた。

「麻代」ともう一度よんでみ

た。

 妻はうつうつとして眼ぶた

を細くひらいた。

「起きてごらん。ありがたい

二月の朝だ」

 彼は一種の詩情をもつてさ

う云つた。


 午後二時過の銀座を、彼は

麻代と肩を竝べてゐた。

 彼は呆然とたのしい氣持で

あつた。

「おや!」

 ふとさういふきき覺江のあ

女聲をんなごゑをきいた。みると、六年

前に彼をことはつた女である

「やあ、暫らく―といつても

 ずゐぶん長い暫らくですが

 ―お變りもなく・・・」

 彼は平氣でさう云へた。

 女は今ではもう三十三ぐら

ゐになつてゐる筈である。昔

の美しさはなかつた。むしろ

みにくかつた。どういふもの

か、昔の派手好きであつたひ

とに似合はず、みぢめな裝ひ

であつた。貧乏してゐるなと

彼は思つた。

 彼は人の生涯といふものに

ついてちょつと考へた。昔と

恰度あべこべだとも思つた。

「あなたは昔から苦しんで來

 られたから、大へんお立派

 におなりになつてー」

 女は皮肉でなく、心からさ

う云つて彼らを羨望した。

「おかげさまで―」彼はこの

言葉のうちに、六年以前の血

みどろなうらみをこめてゐる

のをはつきりと意識してゐた

 ひとを見分ける眼のないせ

いで、あなたは今さういふ滿

足できない暮しをしてゐるん

だ。―彼は心のなかで爽快な

嘲笑を覺江た。

 二十分で別れた。

 彼は、若い、美しい、さう

して聲樂家としても高名な妻

と、肩をくつつけ乍ら、ゆつ

くりとステッキをつき、はれ

ばれとした氣持で歩るいた。

 ふところには昨日もらつた

ばかりの原稿料がそつくり入

つてゐる。

 銀座の散歩には三百圓ぐら

ゐ持つてゐるのが恰度いいと

考へ乍ら、ふとふりかへつて、

もう一度別れた女を一瞥した

いと思つたが、もう彼らの視

界にはなかつた。(完)

    ―昭和五年二月稿―

(越後タイムス 昭和五年三月二日 
           第九百四十八號 六面より)


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        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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