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『川霧の橋』観劇。東京⇆博多3往復の過激な(歌劇な?)旅

まさか東京⇆博多間を3週間の期間で3往復する日が私の人生に訪れようとは。(ちなみにうち1回は日帰り往復でマチソワ)

なぜそんなことになったかって?

それは言うまでもない。“大いなる好き×大いなる好き=無限”が成立してしまったから。

大いなる好き①は月城かなとさん、大いなる好き②は作品自体を指す。

長らく応援してきたれいこさん(月城かなとさん)の念願のトップスター就任。そのお披露目公演に『川霧の橋』が決定した。31年前の初演は、私の生まれる前。当然観たことはなく、宝塚を観始めてまだ5〜6年の私は作品の存在すら知らなかった。

だが、初演を知る方の評判はすこぶる良い。「ほうほう、そんな素晴らしい作品があるのならば注目してみようではないか」。そんなちょっと上から目線な気持ちですらいたし(ごめんなさい)、れいこさんのトップ就任とお披露目ということ自体が嬉しすぎて、作品云々かんぬんは正直忘れて初日に挑んだ。

気合満点で月〜水曜で“遅めの夏休み”という名の3連休を取得し、の10/11(月)の朝、人生初の博多に向かった。

「お披露目だあああああ」という感極まり方で開演前から半泣きであったが、幕が開き、プロローグでの幸さん(主人公:幸次郎)とおみっちゃん(ヒロイン:お光)無言の芝居から一気に作品の世界観に惹き込まれる。板上にはたったの2人、且つ台詞も歌もない場面では、より質の高い芝居が求められるが、れいこさんと海ちゃんの2人はそれを見事にクリアしていた。

そこから華やかなな第六天の祭りの場面へと移り、幸さんを中心に主要な男役さんたちが和太鼓をたたき、一気に劇場空間を熱気で包む。

しかしこの作品、華やかと言える場面はこの第六天の祭りの場面のみで、これ以降は、江戸時代の江戸に住む一般庶民の日常がただ繰り広げられるだけ。

これだけ聞くと、本作をまだ観たことのない宝塚ファンの方は、「え、それ宝塚作品として成立するの!?」と思われることだろう。それがですね…成立しちゃっていたのです。

※以下、ネタバレも含みますのでご注意ください。

主人公の幸次郎は、“十七の夏の時から”現在(多分二十代前半の設定)まで、おみっちゃんに片想いをしている、超がつくほど一途な男子。そんな幸さんが、十三歳の時から徒弟として入っている棟梁「杉田屋」で、幸さんが新たな若棟梁に任命された。同じく杉田屋の徒弟である清吉は、自分ではなく幸さんが任命されたことを良く思わなかった。幸さんがおみっちゃんを想い続けていることを知った上でおみっちゃんに告白。自分が数年上方(大坂)に行くから、帰ってくるまで待っていてくれ、と、まだはっきりと“恋”というもの自体を自覚したことがなかった若いおみっちゃんの気持ちを拘束したのだ。
そんな清吉の行為に巻き込まれ、幸さんとおみっちゃんの心はなかなか交わらず、幸さんにとっては辛い辛い日々が訪れる。
そんな日々の中、“お江戸の名物”とも言える火事が江戸の街を襲う。この火事により、幸さんとおみっちゃんをはじめ、江戸の人々は翻弄されていく。それぞれの人に待ち受ける運命とは…。

とまぁ、あらすじはこのくらいにしておいて。この作品の大きなテーマは、ありきたりな言葉だが、“愛”である。まだ若いのに一人の女を長く深く愛し続ける幸次郎。家族の愛情を受けてこなかったから曲がった性格になってしまったのでは?と想像させる不誠実な清吉。ご近所同士で互いに助け合いながら生きる江戸町人の人間愛…などなど、さまざまな愛が描かれた作品だ。

幸次郎は、芝居土産のかんざしをおみっちゃんに渡しても冷たくかわされ、おみっちゃんに縁談を申し込んでも断られ、終いには別の女性を嫁に迎えることになり…と非常に辛い境遇に陥るのだが、幸次郎のおみっちゃんへの愛情は潰えることはなかった。

“お江戸の名物”である火事に見舞われた日、おみっちゃんとお爺さんを真っ先に助けに来てくれた幸さん。なんて良い男なのだろう。れいこさん演じる幸さんの熱視線が幾度となくおみっちゃんに注がれ、言葉でも気持ちを伝えてくれるが、おみっちゃんの心は清吉に束縛されており彼女はなかなか幸さんに振り向かない。「おみっちゃんには幸さんしかいないよ!気づいて!」幾度となく心の中で叫んだことだろう。

江戸の下町を焼き尽くす大火事に、隅田川の河岸まで追いやられた幸さんとおみっちゃん。「どんなことがあってもお前を助ける!」と宣言して、火の粉を浴びないようおみっちゃんに布団をかけてあげたり、暑がるおみっちゃんに川の水をかけ続けてあげたり…。幸さん優男すぎるって…。

戦前戦後の時代に生きた、原作小説の生みの親、山本周五郎の実体験が反映されているのだろう。場面の登場人数は少ないが、火事の描写はリアルで緊迫感に溢れていて怖かった。

おみっちゃんに水をたくさんかけてあげるために、近くに流れてきた手桶を取ろうとした幸さんは、そのまま川に流されてしまい、その後数ヶ月経って再会するまでおみっちゃんと離れ離れになってしまう。一連の出来事のショックからおみっちゃんは部分的な記憶喪失になってしまい、なんて壮絶な人生なんだ…!!と衝撃を受けたが、これがきっと江戸の日常だったのだろう。“火事はお江戸の名物”と言葉で言ってしまえば軽く聞こえるが、そういった自然災害が現代よりも遥かに多く起こり、その度に多くの人の命が奪われていたのだなぁ、と当時の江戸に想いを馳せると、胸が締め付けられる。

どんなに大切な人を失おうと、それでも残された人たちは生きていかなければならない。現代人にとっては“死”は非常に重いものだけれど、当時の人はそれが常に隣り合わせで、大切な誰かが不意にいなくなったとしても、自分が生きるためには傷心ばかりしてはいられない。登場人物たちからは、そんなタフさも感じられた。

その後も幾度かすれ違った幸さんとおみっちゃんだけれど、一番最後の最後で、ようやく結ばれ…柳橋の上でのあの名場面!!!!!「あ、幸さん、蛍!ねぇ、取って」というおみっちゃんの台詞には、あまりの可愛さに観ているこちらまで「いくらでも取ったるでえ!」と息巻くほど。不幸が続きすぎて、最後の最後の幸福がとてつもなく喜ばしいことに感じられ、この感情の揺さぶられ方は周五郎先生様様!と思わずにはいられない。

影コーラスで主題歌の『川霧の橋』の「れんげの花のような〜♪」と始まった途端に溢れ出る涙。長年の想い、今度こそは歯止めが効かない!と言わんばかりの幸さんの内から込み上げる熱視線。耐えきれずおみっちゃんの腕を掴み少し撫でるという最強のラブシーン!畳み掛け方がすごい〜!!!

幸さんがおみっちゃんの肩を抱き、下手の花道に向けて歩いて行く姿、見えなくなるまで、いや見えなくなっても見つめ続けたよ、私。

江戸人情物。なんて素敵なのだろう。東京の下町生まれ、下町育ちの自分としては、何やら猛烈に響くものがあった。周五郎作品ならではの人間の本質への迫り方は、容赦なく辛辣な一方で温かい愛に溢れていた。そして、自分日本人だなぁ…とえらく痛感…。

出演者一人一人の細かい芝居についてまで、いくらでも語れる。でもそんなことまで全て書いても誰も読まないだろうからこのあたりで切り上げることにする。

良作と出演者の巧みな芝居が高いレベルで重なり合った公演に出会えた時、至上の幸福を感じるが、多くの公演を観てもそこまでの経験はそれほど多くはできない。そんな公演にまた一つ出会うことができて、また一つ自分の人生が豊かになった気がしている。ありがとう。

そんなこんなでハマりすぎて、東京⇆博多間3往復!したわけでありました。

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