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「スマホ依存」について考えてみた

今や現代人にとって欠かすことができないツールとなったスマートフォン。少し前までは「子供には持たせないように」とか言われていましたけれど、そういう声も最近は小さくなってきているように感じています。
それだけ「当たり前」になってきているのでしょうね。

有志で行っている読書会で、アンデシュ・ハンセン(Anders Hansen)というスウェーデンの精神科医が書いた「スマホ脳」という本を取り上げました。
本の要約を以下のリンクから読むことができます。

著者が情報化社会の最先端の米国や中国ではなく北欧の人というのが、そもそも面白いところがあるなと思います。読書会では北欧の文化、大切にしてる価値観みたいなところとの対比でスマホをガシガシ使っている我々についてどう考えるか…みたいなちょっと深い話になりました。

読書会の中で話されていたことを終わってから振り返ってみて、色々と思うところも出てきました。
それは「なぜ、スマホを(必需品のように)使うのか」という問いに対する自分なりの答えでもあります。

私自身、一日の中でかなり長い時間スマートフォンを使っています。
iPhoneですとScreen Timeで何をどのくらいみていたのかがわかりますけれど、私の場合で一日あたり時間、コンスタントに10時間から12時間スマホに触れています。
自分でも、エッ?となるほどの長さです。一日の半分近くですもの。

なしで過ごせと言われてもできなくはないとは思いますけれど、こうして数字を見ていると、私がスマホ依存ではないとは言い切れないな、と。

そこで、先ほどの問いです。
「なぜ、(私も含めてのスマホ依存者は)スマホから離れられないのか」

刺激への依存

「子供にスマホを持たせるのがよくない」という理由で一般的に言われているものが何であるのかを、Microsoftのコパイロットに聞くと次のような答えが返ってきます。

1) スマホの長時間利用や依存が心配される。スマホに熱中すると勉強や睡眠がおろそかになったり、視力や姿勢が悪くなったりする恐れがある
2) スマホの使い方やネットリテラシーを教えるのが難しい。親自身がスマホやネットの正しい使い方や危険性を十分に理解していない場合が多く、子供に適切な指導ができない
3) スマホやネットでのトラブルや被害に巻き込まれるリスクが高い。SNSやゲームなどでのいじめや誹謗中傷、個人情報の漏洩や不正利用、不審者や詐欺師との接触など、子供がネットでのトラブルに遭う可能性がある

コパイロットに「子供にスマホを持たせるのがいけないという意見の理由は?」と聞いた結果です

あらためて見て、ごもっともと思いますけれど、さて大人にこれを当てはめて考えてみるとどうでしょうか?
面白いかもと思ったので、続けてコパイロットに聞いたところ、
「大人に持たせるのがいけないとは一概に言えませんが、スマホの利用には注意が必要です」
と前置きし、睡眠などの健康に関わるもの、危険性という項目としては同じものが出てきます。

2)3)はスマホを使い流れていてリスク対策ができている大人であれば大丈夫かもしれませんので、問題なってくるのは1)の健康に関してでしょうね。肉体的な健康と精神的な健康との両方
ドライアイで目が疲れたり、寝不足になったりで自覚してる部分はありますね。

にも関わらず、ついついスマホを触ってしまうのはなぜでしょう?

ちょっとでも暇があればスマホを取り出して触っている…私もそうです。
私は何かしていないと落ち着かない多動症的なところがあるのですが、じっとしていられないとかぼーっとしている状態に耐えられない、人は「刺激依存」の傾向があるのかもしれません。

では、なぜ刺激に依存するのか?
読書会の中では、一種の「現実逃避」ではないかという意見が出ました。

…私の場合はそうかもしれない、と素直に思います。
暇になった時に、いろいろなことを考えだします。それは必ずしも愉快なことばかりではありません。大抵の場合、気がかりなことであったりやらなくちゃいけないことであったりするわけです。
そこから一時的に逃避するために、小さな画面の中に意識を集中させる。自分を取り囲む世界から画面の中に没入することで現実から離れてしまっているわけです。

それが良いとか悪いとかの話ではなく、起きている事実なのだな、と。

「情報化社会」という呪い

読書会ではフィンランドの暮らしの話が出てきて、フィンランドでは電車の中でスマホを触っている人を見かけないという話になりました。
日本はどうでしょう?触っていない人の方が少なくないですか?

私は通勤時間帯の混んでる電車の中ではスマホは見ないようにしています。代わりに音楽を聴いたり、それこそこれからやる仕事のことを考えていたり、です。
でも、車輌内の人がスマホで何をしているのだろうかと関心が湧くことはあるので、しばしば何をしているのか覗き見(失礼!)しています。

すると、スマホで実にさまざまなことをしていることがわかります。
ゲームをしてる人、ビデオやYouTubeを見てる人、株式関係の投資情報を見てる人、読書してる人、ニュースサイトを見てる人、ラインやメッセンジャーで友人とやりとりしてる人、SNSを見てる人、そして仕事してる人…

ゲームに関しては、前述の「刺激依存」的なところはあるのかなと思いますが、それ以外の行動については、別の理由があるようにも思います。
それは、話題についていけなくなるという強迫観念のようなものです。

変化が激しく、変化のスピードも速い。
そして知っておくべき情報の量がものすごく多くなってきているのが現代です、というか「それが現代だ」と言われています。
世の中についてゆくため、社会や他人についてゆくために、情報の洪水の中で自分に必要なものをとりに行っている…取りに行かないと置いていかれる…
これはある意味「情報化社会」という言葉の呪いのようなものではないでしょうか。

私自身、電車の中ではやりませんけれど、朝起きてから家を出るまでの間のルーティンがあります。
以前、以下のnoteの中に書いた、一日のルーティンの中の一部です。

朝食を取ったり、白湯を作ったりの合間ではありますが延べ2時間半から3時間ぐらい情報収集のためにスマホを使っています。
ふと昔を振り返ってみて、毎日こんなに時間をかけて情報収集していたかと考えてみると答えは明らかにNoです。

私の中に「見ておかなきゃ」みたいな意識が常にあり、しかもそれがルーティン化していると、できないとものすごいストレスになってしまっています。スマホに触って情報に触れられるとホッとする
こう書いていて、かなりヤバい依存症になっているなと自分でも思います。

利便性という快感

調べ物だけでなく、買い物としたり、予約をしたり、スマホでは今まで手間がかかっていたことが簡単にできます。
面倒だったことが簡単にできるという快感がスマホを通じて得られているわけです。
買い物が「ポチる」だけでできてしまう簡単さから、つい買い過ぎてしまっているというような人もいるかもしれませんね

私は出張でよく新幹線を利用します。
新大阪の駅にはみどりの窓口があって、いつ行っても並んでいる人はいますし、その列はそれなりの列になっています。
その周辺にはネットで切符を買う方法や新幹線のスマートEXのポスターなどが貼られています。

私は新幹線の切符はスマートEXで購入し、チケットレスで乗るのに慣れてしまっていて、その列を横目で見ながら改札を通る時に「こんな便利なものを使わないなんてもったいないな」ぐらいに考えていました。

でも、列に並んでいる人たちをよくみると、決してそういうものに疎い人や外国人ばかりではなかったりします。
では、なぜ並んでいるのか?

ひょっとしたら、並びたくて並んでいるのではないか?
なんて考えてみたら、思い出したことがあります。
それは私がまだ小学生とか中学生だった頃のことでした。
一人旅をさせてもらえることになって、みどりの窓口に切符を買いに行ったときのことです。

当時は、並ぶなんて時間の無駄だなぁなんて思いませんでした。
むしろ、並んでいる間も電車に乗ってから何をしようとか、着いた先はどうなっているのかとか想像しながらワクワクと楽しんでいたかもしれません。
そして、並んでいる列が短くなって行く度に、それらの想像が現実に近づいてゆく感覚があり、窓口で切符を受け取ると夢見ていた旅は自分にとっての確定した未来になったような気持ちになっていました。

つまり、並ぶという行為の間に、私は自分の旅を想像して楽しみ、期待や夢が大きくなってゆくことで旅へのモチベーションが大きく上がっていたのだと思います。

翻って現在。
スマホで簡単にチケットが買えてしまう私にとって、切符の購入は手続きになってしまいました。そこには利便性という快感はありますけれど、旅の楽しみ(味わい)の大切な一部を喪失しているのかもしれない、なんて考えてしまいます。
それこそ、その楽しみを逃して「勿体ない」のかも、と。

味わうをもう一度

読書会の中でフィンランドの暮らしの話が出てきたと冒頭に書きました。
私はフィンランドは行ったことがないですし、話を聞いてもイメージが湧かない部分もありますけれど、デンマークにあるヒュッゲという言葉については本で読んでイメージをつかめているかな、と思っています。

フィンランド同様、北欧に位置するデンマーク。
そこでの暮らしを語るのに欠かせない言葉がヒュッゲ。
そればどんなものであるのか、本の冒頭を引用してみましょう。

「ヒュッゲっていったい何?」をきちんと説明するには、ちょっとしたセンスが必要です。

「人との温かいつながりをつくる方法」「心の安らぎ」「不安がないこと」もヒュッゲですし、「お気に入りのものに囲まれて過ごす幸せ」「心地よい一体感」もヒュッゲ、そして私のお気に入り、「キャンドルのあかりのそばでココアを飲む」こともヒュッゲ。

どれもこれもヒュッゲなのです。

ヒュッグは、何か存在する「もの」ではなく、その場の空気や経験をあらわします。たとえば「大好きな人と一緒にいること」。そんなことがヒュッゲです。

「家に帰ってきたときのホッとする感じ」「外の世界から守られているという安心感」であり、安心だから、よろいを脱いで自分を解放できる。それもヒュッゲ。

ちょっとしたことも、人生の一大事もヒュッゲです。ふたりで得かに寄り添うときも、ひとりで紅茶を飲む幸せもまたヒュッゲでしょう。

マイク・ヴァイキング著「ヒュッゲ 365日「シンプルな幸せ」の作り方」(三笠書房)2ページより引用

この本について私の言葉で語ると、
デンマークの暮らしを紹介する中で、その根底にある自然と共にあって、シンプルな生活を丁寧に楽しむ考え方であり方法…
みたいになります。
写真もたくさんありますし、デンマーク料理のレシピなどもあったりして、一家に一冊あってもいいんじゃないかなと思ってるおすすめの本です。

で、この本のことを思い出した時に、スマホ依存の自分自身がヒュッゲのような暮らしに憧れつつも、その情報そのものをスマホで検索して見ているという矛盾のような状態に気づかされます。
そして、最初の問いに戻ってきます。
「なぜスマホ使っているんだろう?」

とは言え、スマホはもはや必需品。
生成AIのような人のパートナーとなるようなツールが出てきていることを考えるとその傾向は今後はますます強まってゆくでしょう。
実際、財布忘れてもスマホは絶対忘れない私だったりしますし。

でもね。
たまには、スマホがあることで何かに掻き立てわれているような精神状態から離れ、小さな一つの体験を思い切り引き延ばしてみて、丁寧に味わってみるようなことも人間には必要なんだって思い出したいですね。

だって、ひょっとしたら、
それこそが「贅沢」かもしれないし、それを贅沢と感じられることが「幸福」なのかもしれないじゃないですか?

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