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最近の「研究」について思うこと

人事の仕事をしていると、人文系、社会科学系の勉強が必要になってくることがしばしばあります。
企業に勤めていると学校に行ってまとまった時間を勉強したり、研究したりすることはかなり難しいので、本を読んだり講演を聞きに行ったりします。そんなことをもう20数年やっているかもしれません。

学校に行って学びたいなと思うこともありますけれど、今から学校に行くということは大学院で専門的なことを掘り下げて研究することになるため、間口の広い知識を保っておきたい私のような人は足が遠のいてしまっています。

言い訳はこのくらいにして、いわゆる「研究」について、ここ数年違和感を感じていることがあります。
そもそも研究ってどういうことなのか、から考えてみます。

研究における二つのパターン

私はいわゆる研究者とタイトルがつく人間ではありませんけれど、一般的に「研究」と名がついているものには二つのパターンがあるなと思っています。
具体的には、「実験を伴う研究」と「実験を伴わない研究」です。

実験を伴う研究は、理化学系の研究をイメージすると分かりやすいと思います。
物理や化学において実験室で実験をしてみて何が得られるのかを試行錯誤し、その過程とどのようにして結果が得られるのかについて法則性を見出してゆく…
そんなイメージがあります。

理化学系に限らず、社会科学においても、仮説を組んでその検証のために実験的な試みヒアリングをある程度の数だけ行って、そこから理論を立ててゆくことはあるのではないでしょうか。

一方で、実験を伴わない研究というのは、すでに世の中に出ている数々の文献や情報からパターンや法則性を見出し、そこに考察を加えてゆくようなものです。

私が大学を卒業する前に書いた卒論などは、まさにそのパターンでした。専攻していたのは労働法でしたが、社会人ではないので組織の中での実験やヒアリングはできず、労働法や判例をできるだけ多く読んで、その中から総じて言えることをまとめ、そこに自分なり意見を加えて書き上げていました。
ものすごく時間はかかりましたし、苦戦したことを覚えています。

研究者の講演が魅力的である理由

学校を卒業してから就職し、人事の仕事になったあたりからやっと色々と勉強をするようになった私は、よく講演を聞きに行きました。

当時は人事としての基本的な知識を知ることのほうが先だなと思っていたので、企業の事例発表よりも大学の先生の講義を聞きに行くことが多かったように思います。
例えば、キャリアについての考え方とか、組織論とか。

企業の事例はあくまでも数多ある企業の一例に過ぎないですし、その会社だからできる施策というのもあるので、聞きに行ったところで当たり外れが多いように私は感じていました。
一方で、学校の教授の講演の方がさまざまな事例を鑑みた上でのものであったので、理論だって聞こえていて、私にとっては心地が良かったのだと思います。

また、学校だからこその発想で思い切った実験や仮説のもとに、社会実験を行なった結果を発表している講演がひと昔前は多く、さすがは学府だなぁと感じたものです。

最近の研究発表に感じるモヤモヤ

今でも私は、新しい知識を得るためであったり、講演にヒントを得て新たなアイディアを練ったり考察を行うために講演を聞きに行きますけれど、最近は講演を聞く中で冒頭に少し書いた違和感がモヤモヤがあります。
それは、実験してない研究が多くなった、ことです。

つまり、大学で研究をしているであろう人たちが、実験をしてるのではなく、文献を読み漁り引用して、そこに自分の見解を加えたものを「研究」として表に発表している状態ばかりになってきた、と感じています。

それがいけないこととも言えないのですが、なんというか他者の論文の引用をくっつけてツギハギしたものを見せられているような気分がするのと、研究者というよりも批評家みたいになってきているように感じてしまっています。

さらに言えば、昔は文献を集めてきて読むだけでも大変な労力でしたけれど、今はネットの検索でそれができてしまいます。
論文の引用をくっつけて見解をつけることなどChatGPTやMicrosoftのbingCo-pilotで数秒でできてしまうわけですから。

ネットで検索した文献を分析して、そこに独自の考えや理論を打ち立てるのに価値はないとまでは思わないのですが、そこに物足りなさを感じてしまう理由が私にはもう一つあります。

それは、いくら優れた文献や本を引用しても、それらはすべて「過去」の事象について書かれたものでしかない、という点です。

実際、社会科学理論の本は、様々な企業における事例を研究者がヒアリングしながら収集し、具体的な事象を抽象化し、法則性やパターンを見出し、それを組み替えることでさらに良い結果を得られるという仮説を立て、それを実際にやっているところの事例を持ってくるような作りになっています。
このような流れで作られることを考えてみると、最初に事例のヒアリングを行ってから理論としてまとまって本になるまでにはそれなりに長い期間が必要になっていることがわかります。

理論が表に出るまでの間に時間がかなり経過してしまったとしたら、事例そのものは陳腐化してしまいますので、下手をすると研究が本や文献として発表される頃には、その内容が社会に通用しないほど古いものになってしまっていることもあるのではないでしょうか。
実際のところ、新型コロナウィルスの前後の社会の変化によって、その前に出された研究が「これは今はないな」となっているケースは少なくありません。

にもかかわらず、そのようなものを集め、引用して見解を加えたところで、昔の映画の評論を聞いているようなものになってしまっていて、魅力を感じられないのです。

実践して検証してこそ研究

ここまで書いてきて、研究って色々なやり方と形があるなと改めて思いますし、どの研究にもそれぞれの価値があり、それを求めている人たちもいるよなとは思います。

だから、これは単なる私の好みの問題なのかもしれません。
それでも、あえて言わせていただくと、「実験(実践)して(結果を)検証してこそ研究」ではないかと私は思います。

そういうやり方には、何か新しいものが生まれ出す可能性と余地があります。
過去の振り返りに留まらず、現在の中に新しい価値を吹き込み、未来を作り出してゆくことにも繋がって行けると私は思います。

理想を頭の中で考えてるだけではダメです。
だから実験をするのです。自分の考えが果たして本物か、機能するものなのかを確かめるために。何度も何度も。

そうやって現場と机上の行き来をしながら、
自分の中にある理論を「」いで「」める…
それが「研究」であり、その先にひょっとしたら真理があるのでは?と。

頭だけでなく手足を動かしてその真理を追い求め、近づいてゆくことができるから、研究って楽しいんじゃないかなって、私は思うんですが…

研究者の方、どうです?

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