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ネットはどのように分断を生み出すのか

このところの朝の習慣になっているVoicy
朝のルーティンを行いながら放送を聞いていると色々なことを考えつきます。
それは、放送の中で語られるふとした一言、一節、エピソードから想起されるものであったり、そこから発展して思いついた仮説であったりします。

アーティストのスプツニ子!さんをゲストに迎えての対談の中で語られてた、「インターネットの特徴として逆回転をかけるパワーも働きやすい」
という一言からいろいろと思うところが出てきました。
その放送回は以下のリンクから聞くことができます。

注目されたいから言葉が尖る

インターネットの特徴として逆回転をかけるパワーも働きやすい…
なるほどと思いました。

例えば、Twitter。
以前にビジネスを起こしたいと言っていた友人がSNSを使ってプロモートをしたいけれどTwitterは批判的なメディアでネガティブになりやすいからYouTubeがいいと言っていました。
私はそういう感覚はなかったのですが、おそらくテキストベースで揚げ足を取られやすいようなことはあるのかもしれないですね。

そのように炎上をさせるつもりがなくても、Twitterなどで素直に自分の考えを呟くことは、それが普段は語られない言葉である場合は強く刺激的に捉えられてしまうことはあると思います。
世の中の動きに対する、ちょっとした疑問や不満の声。でも、呟いた人の正直な気持ちなのだと思います。

しかし、中にはすでに世の中から注目されている人や自分が注目されたい人がいます。有名人が何気ない不満や疑問を呟けばその影響は大きいかもしれませんが、注目を集めたい人たちは、それに相乗りをして自分の意見として拡散を始めたりします。
あるいは、呟きや発言の一部だけを切り取り脚色や解釈を加えて「不要に増幅した」極端な意見として広めてゆきます。

そういったある意味、極端で過激で「え?」と思うような意見はビューが増えますし、同じように思っていても言えなかったと思う人たちが「よくぞ言ってくれた」とRetweetしたり、フォローしたりします。
フォロワーが増えたり、イイねが沢山ついたりすれば、注目を浴び続けるために投稿はさらにエスカレートしてゆきそうです。

分かりやすさを求めるから分断が生まれる

一方で、読み手やフォロワー側の視点に立ってみると、彼ら彼女たちは情報の海の中にいるので、その中で分かりやすく掴みやすい情報を求めています。
長い文章や冗長に感じられる話の中で、何についての話なのか、何が答えなのかを端的に早く掴み取りたい
ネットで検索すれば簡単に答えが見つかる世の中になって、それがどんどん加速していますよね。

情報を表面的に、自分にとって都合の良いところ、面白いと感じられるところだけを切り取り、それに対して賛成意見や反対意見を発信する。
その賛成意見や反対意見に共感や賛意を得たいから、注目されやすく分かりやすい「極端なメッセージ」が作り出される。

メッセージが極端になればなるほど、「それはおかしい」「それは言い過ぎ」となって対立や分断が起こります
そしてどんどんそれが増幅し、激しい討論となり、下手をすると炎上する…
これは、呟いた人が悪いということではなく、テキストベースで不特定多数の言いっぱなしになるSNSというシステムが作り出しているものではないかと私は思います。
皆、根は素直なだけなのに、ちょっと恐ろしいなと思います。

放送の中で「逆回転をかけるパワーが生まれやすい」とスプツニ子!さんが言っていたのはいたのはこういうことかもしれないと。
私自身もTwitterで批判的に取れるつぶやきをしてしまっているかもしれません…
気をつけないと…

「イベントを取材して記事にしたい」で驚いた件

先日ちょっと驚いたことがありました。

何冊も本を書いていらっしゃる著名な方をゲストに迎えての対話イベントを行ったのですが、そのイベントを取材したいというオファーがとあるウェブ・メディアからありました。
イベントを一緒に企画している仲間は、掲載されることでイベントの注目度が上がるので素直に喜んでいましたが、私は依頼文を読んでいて引っかかるものを感じました。

ゲストとの事前打ち合わせでは、「対話会」なので「スライドなし、録画なし」で当日その場のライブ感を楽しんでもらい、思わず飛び出るここだけの話も含めて本音で対話できる学びの機会にしようということで合意をしていました。
依頼文には「zoomの録画とスライドの提供」をお願いしたいと書かれていました。

対話会の前提が崩れてしまうのと、録画や録音をする場合は参加してくれる人に録画・録音をする旨を事前か開始時に伝える必要がありますし、その際にはなぜ録画するのかの理由も必要となるでしょう。
企画をする者として、それをするのは抵抗がありましたので、丁重に録画も録音もしないしスライドもないので、参加した時に自分で録音するなどして取材してもらいたいと伝えました。

すると、ウェブ・メディアの記者から「それでは記事にするのが難しい」とお断りのメールが来ました。
しかもイベントが始まろうという1時間前ぐらいのタイミングで。

ちょっと失礼だなと思いましたが、私自身は取材してもらいたいとは思っていませんでしたので逆に気楽にイベントを始めることができて良かったなと思っていました。
おかげさまで、参加者もゲストも本音での語り合いを楽しんでるように見えました。

イベントが終わった後で、企画仲間と取材が無くなったことを話し合ったところ、最近のウェブ・メディアはイベント自体には参加せずにzoomの録音から文字起こししてそれにスライドの抜粋を添えて記事にしているのだと聞きました。
つまり、イベントにリアルタイムで参加する気などさらさらなかったと言うわけです。

これには驚きました。
それって取材とは言えないじゃん。

あらためて思う対話の必然と重要性

私のイメージする「取材」とは、生で取材対象と向き合い、質問で語られているところから一段深く掘り下げて本質を見出し、独自の意見や見解を添えて記事にする一連の流れ、です。
そこからすると、録画から文字起こしして編集して記事にするというのは論外であり、ましてやイベントに参加せずにそれを行うのは、参加者や登壇者に失礼ではないかと思えました。
断られて良かったな、と。

振り返って考えてみると、こういうところにもネットで氾濫する情報が「表面的」で注目を集めるために切り取られ脚色されたものになってしまっている現象が表れているなと思えます。
記者の方にしてみれば、忙しい中をいちいちイベントに参加しなくても録画を倍速再生して、記事として面白そうな言葉を切り出したものがそのキャッチーで話題性のあるネタや言葉から注目されるのであれば素晴らしい時短であり生産性が高いのでしょう。
それは理解できますし、そういうメディアであり、そんなメディアを求める世の中なのでしょう。
きっと読み手も「イベント出ないで中身が手に入ってラッキー」と思う人たちなのだと思います。自分自身もそうやって記事が作られているとは知らなかったので、同じように感じていました。

でも、やっぱり変、だと思いませんか?
語り手のどんな意図や場の作る雰囲気や空気の中で言葉が語られたのか、それがすっぽり抜けてしまっている録画の倍速再生から文字起こしした記事が、賛同や批判の対象となり、拡散されてゆき、場合によっては炎上してしまう…
聞き方、読み方は人それぞれですけれど、私は歪められたものが広がってしまってゆくことに違和感を禁じ得ません。

言葉は一人歩きします。
それはネットに限ったことではないでしょう。
でも、言葉が語られた状況の理解とその言葉の意図する本質に迫ることは私はとても重要だと思います
そこまで届くことができるのが対話なのではないでしょうか。

言葉だけでなく相手自身を、相手の持っている世界観を理解する。
言い方を変えると全人的な理解を試みるのが対話だと思います。
そこから言葉だけを切り離して取り上げ、自分がつけたい解釈をつけたときに既に「分断」は始まっているのではないでしょうか。

分かり合えないから起きてしまう分断、そして断絶。
そこを超えるために、あるいはそうなる前に、私たちは便利なシステムの歯車にならずに恣意的に積極的に対話を試みることができるはずだと私は思います。
それが情報の海を渡る智慧でもあるのではないか、と。

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